2016年2月3日水曜日

小浜で十一面観音との出会い


すでに小浜市に入っていた。

海辺の近くにこじんまりした民宿を見つけた。釣り客や夏の海水客相手の宿でもあり、気楽な雰囲気が気に入った。日本海に沈む夕陽を久しぶりに浴びながら、ともかくここまで来た事にわれながら感心していた。歩く事の楽しさと苦しさを少しながら感じている自分に驚きもした。だが、これは本の始まりにしか過ぎない。やがて来るであろう苦節の日々時間を思うと少し気が滅入る。

翌日は少しこの地を体感する事にした。

民宿の人に言われたように川沿いに道を辿っていくと、確かに、黒木の鳥居が

見えた。若狭姫神社、若狭彦神社、神宮寺などの案内が並び、更には万徳寺、

明通寺、天徳寺という古刹が建っており、国分寺がある。

静かな町並みも続いていた。かっては、茶屋町として栄えたと聞く。今も数軒の置屋があるということだが、千本格子の家並みが静かに佇んでいた。白壁の塀が続き、松がその上から通り人を見守るように細い影を道路に投げかけている。前方から絣模様の着物の老婆がゆっくりと、足下を確かめる仕草で歩いてくる。その足音が静寂を破るように近づいて、私の横をすり抜けるように前かがみの体がゆっくりと離れていく。その先の小さな小箱の上には白に黒のまだら模様の猫が老婆を迎えるように座っていた。

仕事の関係も在り、30代、40代と細く長くこの若狭周辺は訪れた。

人通りや街の持つ活気さも大分変わったように思える。必ずしも私が歳を重ねただけではないのだろう。確かに30代に初めて敦賀の駅に降り立った時の想いと40代となり人生にやや疲れが感じられるようになった時では違うかもしれない。30代には発電所との往復だけが多かった様に思うが、40代となりここに訪問する時は良くお世話になった所長のところを訪問した。良く聞かされたのが、この辺には朝鮮半島からの漂流物が多く、また古代からの海上交通の要所でもあったから当時の様々な遺構もあり、大陸とのつながりを強く感じるとの言葉であった。

事務所には、ご自身が見つけた陶器の破片や関係者から入手した木簡、絵図などが飾ってあった。古代、大陸から移ってきた人々(これを漢人とも呼ぶが)は、ここから先ほどまで私が辿って来た道を逆に山を越え、西近江路と呼ばれる琵琶湖に沿った道をヤマト政権のある地域更には時代を経て京都へ向かった

のである。小松や和邇は重要な交通路であった。小浜はその様な歴史の匂い

がするところである。

今の自分を幾分なりとも癒してくれる何か、を期待し、また日本文化につながる土地であるとの想いから幾つかの神社を見ることとした。

それは、深き暗き底が無いような空間から湧き上がるようにして彼の記憶の

扉を開けてきた。そのときは、悩みがあったというわけでもない。日夜仕事に

没頭し、心の表面は張り詰めた膜のように僅かな緩みも無い、そんな想いが強かった。

しかし、妻との何気ない奈良の散策で訪れた聖林寺で出会った十一面観音、

薄暗い堂内での出会いの衝撃はその後も、自身の心にしっかりと焼き付いていた。慌てて、書棚にあった和辻哲郎の「古寺巡礼」を見れば、そこに彼が受けた感動が記述されていた。

「切れの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、

全てわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、

また超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには、神々しい威厳と人間のものならぬ美しさが現されている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人のこころと運命を見通す観自在のまなこである。、、、、、、

この顔を受けて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。、、、

四肢のしなやかさは、柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現されていながら、しかも、その底に強靭な意思のひらめきを持っている。

殊に、この重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも

軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。

これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。」

その後、機会があれば、十一面観音像を見に行った。古代、自然の様々な姿を神として自身の生活の糧の一つとしてきた人々がこのような仏像に出会ったときの驚きは幾ばくのものであったろうか、その衝撃は、自分もそのような状態だったか、すでに遠く霞のような記憶の彼方にはあるが、十一面観音像に出会う度に心がなぞられるような気がする。井上靖が「星と祭」の最後に描いている。「湖北の御三尊に続いて、ああ、次々に、尊いお姿がお立ち下さいます。ああ、次々にお立ちくださいます。有り難いことでございます。もったいないことでございます。このようなことがあってもいいものでしょうか。鶏足寺野観音様が石道寺の観音様が、渡岸寺の観音様が、充満寺の観音様が、赤後寺の観音様が、知善院の観音様が、、、、」ここで、大三浦は言葉を切った。瞑目している顔は、月光の加減で盲しいているように見えた。

彼は、ここまで心酔出来ないと思った。強いて言えば、彼の記憶に立ち上るのは、聖林寺と渡岸寺の十一面観音像であった。多分、彼は意識していないが、この仏像の発する母なる優しさと大地に毅然と立つかのような父の強さがこの二つに執着している心根なのかもしれない。

「若狭に十一面観音が多いことも、水の信仰と無関係ではあるまい。そんな思いがわいてもいた。

複雑な海岸線に取り囲まれ、海の幸、山の幸に恵まれたこのうるわしい背面そともの国は、まことに観音様にはふさわしい霊地と言える。中でも羽賀寺の十一面観音は、優れた彫刻で、それやこれやで取材に行くのが楽しみであった。、、、」

高島の山並をあえぐような思いで歩き続け、遠敷川の流れが緩やかになる頃、

白洲正子の十一面観音巡礼の一節を思い出した。聖林寺、渡岸寺で見た

十一面観音の放つ優しさと優美さが暗闇から立ち上るかのように彼の記憶の

中に小さな絵の連鎖となり、時には輝く十一の仏面が、時には薄き眼を大きく

見開き、彼に迫り来る。その一瞬の出来事に足を停め、降り注ぐ陽の中、

何かを恐れるような仕草で周囲をうかがう。だが、山の端、つづらに延びる

山道、黒き豊かな畝の田畑、そしてささやかな水をさえずりを見せて流れ下る

畦道の小川、全ては彼の心とは正反対の風景が広がっているだけであった。

まずは、羽賀寺へ、十一面観音の何かに期待する茫漠とした想いが否応無く

疲れて痛む足を向わせたようである。

北川の堤防を若狭湾に向かい歩いていくと、「羽賀」と言う道標があり、さらに

進むと杉の木立ちが斑模様の日陰を作る参道が続き、石の階の先に羽賀寺が

顔を見せている。私を手招きしている様でもあり、ゆっくりと進んだ。

入母屋造りの檜皮葺きの本堂が大木の杉の木々を後背に悠然と立っていた。

この寺は元正天皇の霊亀2年(716)、行基の草創であるが、村上天皇

や後花園天皇、後陽成天皇など多くの天皇の庇護があったという。

室町時代の面影が感じられる建物である。厨司が開いて、すらりとした

十一面観音が、ろうそくの織り成す火影のもとに浮かび上がった。

そのきらびやかさに思わず眼が行った。切れ長の大きな眼、ふっくらとした優しさの頬と気品の高い唇、頭上の仏面も含め女性のやわらかさが伝わってくる。

十一面の頭上仏はこの全体の醸し出す空気の中では、むしろ控えめ戴いている

感じが強い。また、渡岸寺のイメージが強いのか思ったより華奢なお姿であるが、残っている金色と紅色の彩色の鮮やかさ、天衣の緩やかな流れの先にある

細く伸びた指は美しさ、元正天皇の御影とされたのも、何と無く分かる。

全体に若々しい観音様である。全身から漂う幼いふくらみ、その指、その掌の

清潔で細微な皺、頬に差し込む蝋燭の火影の漆黒と金箔の綾、その鬱したほど長い睫、小さな額にきらめく池水の波紋の反映に、ひたと静まる空気感がある。

時代は平安初期、檜の一本造りで、このような仏像が、若狭にあった、自分の

不勉強さに思わず目をつむる。

好きな人と並んで話した時に覚えたあの心の弾みと甘酸っぱさを思い出す。

小浜をもう少し歩こう、ここからは青と緑のつながりしか見えないが、

北川をへだてて、南には多田ヶ岳が聳えており、遠敷川はその山裾を流れており、西側の谷には、多田寺と言う古刹があり、ここにも十一面観音が祀ってある。さらには、北川をはさんで、羽賀寺、多田寺、国分寺、若狭姫、若狭彦とその神宮寺、などが、殆ど一線上に並んでいる、水の癒しへの関心からもそう思った。多田ヶ岳を源流とする水の信仰と関係も深いのだろう。

人の縁は機縁である。十一面観音に見とれる私の後ろに立ったのが、この堂の住職であったのだろう。老師に話を聞くといいと裏手の部屋に案内された。

五月の晴れた空の下で、この山あいでも春が薄れ、夏が兆していた。

本堂の裏手にあたる質素なつくりの部屋であったが、手入れのとどかぬひろい庭を眺めていると、桜もすでに花が落ちて、その黒い固い葉叢から新芽がせり出し、柘榴も、神経質な棘立ったこまかい枝葉の尖端にほの赤い眼を突き出しているのに気づいた。新芽はみな直立し、そのために庭全体が、爪先たって背伸びしているようであり、その隙間を埋めるように緑の増した苔の帯がさらに庭のしつらえを繁み豊かに見せていた。

通された部屋は寂としている。雪白の障子は霧のような光りを透かしている。

やがて衣擦れの音が緩やかなテンポでその静寂をさくように聞こえ、老師が

現れた。

すでに九十歳にはなろうかと思われたが、薄茶色の衣服にその小柄な身を

包んだ姿は雪白の障子の明るさの中で静かに端座されているようであった。

老いが衰えの方向ではなく、浄化の方向へ一途に走って、つややかな肌が

静かに照るようで、白い眉毛の下の目の黒さには十分なる光がたたえられ、

内にかがやくようなものがあって、全体に、みごとな石像のような老いが

結品していた。

半透明でありながら冷たく、硬質でありながら円やかな空気がその小さな体から、ゆるりと部屋に溶け出している。もちろんその皺は深く刻まれていたが、その一筋一筋が、洗い出したように清らかである。

自分にはなれない、素直に納得した。老師は十一面観音について、本をめくり

子供に聞かせるかのような所作で、語ってくれた。

「十一面観音信仰は古い時代からのもので、日本でも八世紀初めの頃からこの

観音像は盛んに造られはじめていた。ここのご本尊様も八世紀半ばのものと

言われている。この頃から十一面観音信仰はその時代の人々の生活のなかに根を張り出している。この観音信仰の典拠になっているものは、仏説十一面観世音神呪経とか十一面神呪経とか言われるものであって、この経典にはこの観音を信仰する者にもたらせられる利益の数々が挙げられている。

それによると現世においては病気から免れるし、財宝には恵まれるし、火難、水難はもちろんのこと、人の恨みも避けることができる。まだ利益はたくさんある。来世では地獄に堕ちることはなく、永遠の生命を保てる無量寿国荷生まれることが出来る。

また、こうした利益を並べ立てている経典は、十一面観音像がどのようなものでなければならぬかという容儀上の規定も記している。まず十一面観音たるには、頭上に三つの菩薩面、三つの賑面、三つの菩薩狗牙出面、一つの大笑面、一つの仏面、全部で十一面を戴かねばならぬことを説いている。静まり返っている面もあれば、憤怒の形相もの凄い面もある。また悪を折伏して大笑いしている面もある。

いずれにしても、これらの十一面は、人間の災厄に対して、観音が色々な形に

おいて、測り知るべからざる大きい救いの力を発揮する事を表現しているもの

でしょうな」。

と、老師は、不如帰の声に魅かれたのか、庭を見る仕草をした。二人は、

夏の姿に整えつつある庭を見定めた。

「十一面観音信仰が庶民の中に大きく根を張って行ったのは、経典が挙げている数々の利益によるものであろうが、しかし、そうした利益とは別に、その信仰が今日まで長く続きえたのは、頭上に十一面を戴いているその力強い姿ではないか。利益に与ろうと、与るまいと、人々は十一面観音を尊信し、その前に額ずかずにはいられなかった。そういう魅力を、例外なく十一面観音像は持っておられるし、宗教心と芸術精神が一緒になって生み出した不思議なものかもしれん。美しいものだと言われれば美しいと思い、尊いものだといわれれば、なるほど尊いものだと思うほか仕方のないもの」。

和邇が初めて十一面観音に出会った時の、あの美しいと思った感覚がするりと

心に宿った。だが、小浜で出会った観音像を見たときの気持ちと大分違う、それが老師の言われる言葉で心にしみた。

「十一面観音の持つ姿態の美しさを単に美しいと言うだけでなく、他のもので理解しようと言う気持が生まれるように思う。そうでなかったら頭上の十一の仏面が異様なものとしてでなく、力強く、美しく、見えるのは、自分がおそらく救われなければならぬ人間として、十一面観音の前に立っていたからなのでしょう」。

ここで初めて老師は口元に静かな笑みを見せた。それはすぐに気付くものほどのものではなく、しかし、和邇にとっては、心をくすぐるしぐさであった。

そして、心が少し軽くなった、そんな思いが浮かんだ。

 

部屋を辞し、お堂を出ると光が身を包み、緑の山の端が四方から参道に迫ってきて、その先に大門の黒ずんだ屋根が小さな影を石畳に落としていた。暫し佇む自分がいる。玉響に輝く大気の中で、この数年の情けない姿がフラッシュバックのように浮かんで消える。

その姿を断ち切りたく一歩その足を前へ出した。

一人、白髪がまぶしい女性がお堂を見上げていた。黄色のTシャツに少し紅色のかかったジーパン姿に思わず眼が行った。大きな一眼レフのカメラを少し重そうに持っている。眼鏡越しに柔和な眼差しがこちらに向き、軽い会釈、こちらも慌ててお辞儀をする。白髪、ジーパン、カメラその全てが私には不釣合いな光景であった。

「写真がお好きなんですか」

「下手の横好きですの」

にこりと笑った口元は薄く明るいルージュが見えた。

豊かな白い毛を後ろで結んでいる。

多分、自分よりもかなり年上だな、と思った。

だが、どうみても年季の入った立ち姿である。

「私も大昔に写真をやってまして、その頃はモノクロで色々と撮っていました」

「そうですね、モノクロはいいですね。味わいがあります。私も主人が死んで趣味で始めたんですけど、お寺とか神社の森や林、建物を撮っているんですが、カラーでは何か違う気がして少し前からモノクロだけで撮っていますの」

彼女は話しながらも、周囲の空気を感じ取ろうとしている。

生きる強さがある、光に浮かぶ杉木立の中に歩み始めた彼女の姿、また一つ自分の情けなさを思い知らされた。

さらに、小浜から東南の遠敷(おにゆう)川の谷間にあるというその場所を訪ねた。ささやかな川に沿って、若狭姫、若狭彦の神社が建ち、そこからさらに奥へ分け入ったところの「鵜の瀬」に、「東大寺」と記した小さな鳥居がある。

軽トラックで通った地元の人に、そこだと教えられたが、何故そんなところが

お水取りの発祥なのか、人も通わぬ山奥の河原にひっそりと立つ黒木の鳥居は、

私に不思議な印象を与えた。二月堂お水取りには、本尊の十一面観音

にささげる香水を、「若狭井」から汲むことが中心になっており、その水は

若狭の遠敷川から来ると伝えられており、一方では、若狭側も、いつの頃か

「お水送り」という神事が行われるようになって、毎年お水取りの始まる前の

三月二日、遠敷川の鵜の瀬において、奈良へお水を送る祭りがある。若狭彦

神社の旧神宮寺の住職が、この行事を司っており、雪の中で土地の人々が

手に手に松明をかかげ、「これから奈良へ水を送ります」という祝詞を、

河原で読んで水に流す光景は、感銘の深いものとのことだが、私はまだ見ていない。若狭には、朝鮮その他の国々から渡来した人々もたくさんいたから、貢物だけでなく、僧侶や技術家なども相次いで都に上ったであろう。湖西がその途中としてかかわりを持っていたことにあらためてわが町の佇まいを呼び起こす。小浜には、お寺が130数箇寺もあり、神社もほぼ同じ数だけあるという

からよほど信仰心が篤い地方に違いないと思う。

若狭は東西に長く、南北に狭い国で、海の近くまで山がせまっている。

その山あいの谷の一つ一つに川が流れており、川に沿って神社仏閣が建っているという、日本の縮図みたいな地形である。したがって、その文化も、

海洋と山岳の両方にわかれ、大陸系、出雲系、北陸系、大和系のものが

入り交じっているとのこと。でも、ここから日本文化が大陸の影響を受けながらも日本と言う風土の中で独自の育ち方をしていったかと思と静かなる感動が

湧き上がってくる。

訪れた遠敷川の流域もささやかながらそういう文化圏の1つである。

川の西側に若狭姫、若狭彦と、その神宮寺などが並び、東側には万徳寺、

明通寺、少し離れて天徳寺という古刹が建っている。また、遠敷谷の入り口に

あたる街道筋には、国分寺があって、このへんから上中町へかけてが、古代

若狭の中心地であった事が分かる。諸国の国分寺のなかには、建立されずに

終わったところも、滅びてしまった寺もあるが、ここは比較的よく保存

されている方で、鎌倉時代の薬師仏と釈迦如来が祀ってある。

最近は、堂塔の礎石なども整備されて、綺麗になったと地元の話を聞いた。

今はどこも、地域おこし、町おこしの活動が盛んでもあるが、野中の荒れ寺

といった風なたたずまいやものさびた風景が文化源流を感じるという点では

良いのでは、と勝手に思っている。

近頃は地方の祭りや観光が盛んになったせいか、黒木の鳥居が建っていた

河原も、整然と石垣でかためられ、鳥居も大袈裟なものに変わっていて、

多分、一昔前のまだ時代の堆積を感じたものとはかなり変わってきたのであろう。

出来れば、若狭の国の培ってきた古い文化の古里としての深さをできる限り昔

のままに残しておいてほしいものだ。

若狭彦神社の先にある神宮寺に向う。

周りは芒種といわれる季節となり、芒(のぎ)を持った植物の種をまくころであり、「暦便覧」には「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時なり」と記されている。

歩くにも一汗が二汗となり、周囲の山や畑、全てに緑の光が満ちあふれ出し、和邇の身体を被っている。緑の畑がいくつモノ畦道の区切りを経ながらも、遠く先まで伸びている。

その中に、少し金色の畑が見える。俗に、「麦秋至」(むぎのときいたる)

と言われる、麦の穂が実り始め、収穫するころを過ぎ始め、季節は初夏となっていた。

遠くに見える黄色となった麦にとっては収穫の「秋」であり、名づけられた季節が「麦秋」だそうだ。すでに、芒種である。

昔の人は上手くこの季節を「蟷螂生」(かまきりしょうず)、「腐草為蛍」

(くされたるくさほたるとなる)、「梅子黄」(うめのみきばむ)と言葉にしている。いずれにしろ、やがてホタルの幻想的な光が彼の前にも現われてくる。和邇は、何故、ここにいるの、と言う自問自答とともに、一斉に生茂った庭の木々の中で、ただひたすらポーチの上で過ごした昨夏の自分の姿を思い起こしていた。あの時の闇の世界を、いまこの足で破りつつある、それが自分への回答なのだ。ゆらゆら上がるように坂道を上がっていくと、大きな山門が見えた。そして、その中央には注連縄が悠然とした風情で、当然と言う顔でかかっている。ここは神と仏が同居しているという事を先ずは、強く知らされた。

杉の木々が参道を被うように迫り来る。檜皮葺きの屋根が緑の中に浮き立つように現れ、本堂の姿が見えると、そこには、また注連縄が仰々しく掛かっていた。神仏混合は、和邇の周りでは、これほど明確な姿を見るのは初めであった。

寺の住職に聞くと明治まではこのような神社の境内に新宮寺が多くあったという。

知らぬとはいえ、旅の初めにこのような洗礼を受けた事は何か違う自分を

感じる様でもある。足下で白い小石が鳴っていた。小さな影を伴いながら

一つ一つ踏みしめる先に鋭角に切りあがった屋根が後背の山とうすく光る青さ

の中で鋭く伸びていた。

ふと意識の切れる錯覚があり、蝋燭の明かりで仄かに浮かび上がる本尊の

薬師如来坐像がいた。左右の日光、月光菩薩に十二神将の立像が揺らめく

光の中で、薄い影を内陣の壁に映しだしている。薬師如来坐像と脇の仏像たち

暫らくぶりでみるな、と思いつつ、その右には、神々の神号が祀られている

のを見た。暗い中、近寄って見れば、「那伽王比古明神」「志羅山比女明神」

などが読み取れる。榊や三方などがその前に置かれ、神と仏の共存の世界である。

以前湖北で幾つかみた本地仏を思い出す。地元で信仰されている神、多くは

年代を経た樹木であり、比良山や白山のような山々など自然の持つ霊力に感じ入った素直な神への畏敬や尊厳への想いに仏像と言う具体的な形を取った仏教の教えとの共存を図ったモノであろう。信仰とは、その様に素直な心根を持つことではないのか、と彼は思う。

職を得て過去40年以上、昭和、平成と言う時代の苦しくも楽しい時代を

ただひたすら生きてきた自分にとって、神、仏は一番遠い存在であったのか、

しかし、形は見えないものの、この生き方が自分にとっての信仰と言う行為なのか、揺らめく光と一条の真っ直ぐな光を見ながら、さらには、最近の抜け殻のような自分の姿を思い浮かべながら、そんな思いに浸る。

一歩引いたところでしか見切れない自分、何か一つに強く入れ込めない自分、

手足に出来たわずかな傷の痒さに鬱々した時の心の薄い闇が見え隠れていた。

外の光は温かかった、先ほどの落ち込んだ気分を消してくれた。

お水送りの井戸として知られているあ伽井戸が少し先にあった。これにも

大きな注連縄がかけられている。水への感謝については数年前から比良八講

の行事の中で色々と教えられた。そんな事もあり、この香水の場所を見たいとは思っていたが、意外にその感激はない。この水が毎年3月2日に遠敷川の

鵜の瀬まで運ばれ流されると言う。その行事の写真を見ると、白装束の人々が

大きなたいまつを持って本堂を駆け巡り、庭では、大護摩法要が行われている。

やがて、人々は護摩の火を松明に移し、闇の中を一団となって、鵜の瀬まで

向う。モノクロの世界で見ることでその印象は一段と高まる。

すでに陽は中天に届き、伸び始めた稲穂の緑がその光の中で、一様に背伸びし、

私の行く先はるかまで、続いている。

つづらに続く山道を30分ほど歩くと一本杉の横にその本堂が見えた。

密教寺院特有の鋭角な屋根が蒼い空を切り取り、後背の杉の木立ちたちを

押しのけるかのように私に迫ってくる。陽射しに映える半面の甍に白く

塗り上げられた壁が強いコントラストを見せながら私の訪問を歓迎

している様でもある。汗に曇る眼と額を拭い、大きく深呼吸をした。

一歩中に足を踏み入れるとそこは静寂の空気が漂い白くたおやかに煙が

数条差し込む光の中で、立ち昇っていく。正面に赤い緞帳がひかれ、

須弥壇中央の厨司にその人はいた。すこし腫れた眼はこちらをしっかりと

見据え、やや膨らみのある頬を一直線に切り結ぶ唇。はだけた衣は緩やか

にたわみ、右手は与願印を結び、左手には薬壷を持つ。坂上田村麻呂が

蝦夷の地の魂を沈めるために切り出したという薬師如来がそこにいた。

それはその前に献じられたばらんの葉をかきわけ、今にも立ち上がり、

こちらに歩み寄りそうなゆらめく気配を感じた。

まだその眉目を判然と見極めもせぬ先にこみあげてくる印象。多くの人が

病気平癒、心身救済、物資欲求を願いこの如来を訪れたのであろう。

谷越えの風が涼しさを纏いながら一瞬吹き抜け、蝋燭が揺れる。その

揺らめきの先に、こんな所にいらしたのかという、驚きと想いが湧いて来る。

電燈に照らし出された面を、近づいてよく仰ぐ。緩やかな弧を描くような

眉を高くあげた男さんだ。近づく者に優しく労わりの気持を見せる瞳。

正視の強さとでもいおうか、右目は真ん中にあるが左は少し鼻筋に瞳がよっている。人間的な、肉厚い唇と、ノーブルな鼻の形。はえぎわの髪のゆたけさも、

意志の濃さをあらわしている。耳朶の大きさ、螺髪夫々の小さなつぶが、

意志ある男性を意識させる。更に、その両脇に二メートル以上の隆三世明王

と深沙大将がその威容を誇り、両脇に居並ぶ十二神将が薄暗い中に慄然と立つ。

十二神将は小ぶりだが、夫々特長ある姿、ある者は甲冑に身を固め、剣や

槍をもち、己の存在を見せている。十二神将は、新薬師寺や広隆寺でよく

見かけたが、さすが等身大の迫力は本尊である薬師如来よりも印象が強かった。

その印象からすれば、今眼前の十二神将は、むしろほほえましささえ感じる。

斜めに入る三筋の光、その一つが須弥壇中央の厨司を浮き立たせ、浮遊する

無数の埃がキラキラと光りながら、周囲に降り注いでいく。他の二筋は

左横に立つ深沙大将の8本の手を様々な形を見せているが、その光の

中で、どこか妖艶さをかもし出す。さらには、その前面にいる六神将の夫々の

動きをどこか笑いを誘うような趣きで光の中に映し出していた。

本堂の温もりを離れ、回廊から鬱蒼たる杉の群れを見渡す。谷を挟んで杉

の森の先には緑深く連なる峰峰が岩壁を隔てて続いている。谷から立ち上る

風はゆっくりと和邇の頬をなぞり後背へと抜けていく。渓流の音と風の

織り成す音が調和良く耳に達する。ここは死者への弔いの場所と聞いていたが、

生きる者が生きる力を更にもらう場所だな、と思う。和邇も特に強い宗教観を

持っているわけではない。良く妻とも、「あの人は天命だったのよ」「天罰

があたったんじゃない」と不慮の死を遂げた時のニュースを見たときの感想を

言い合ったものだ。神や仏の存在もその程度であった。友達や周辺の付き合い

のある人たちも大差はなかった。「眼には見えないもう一つの世界への畏敬」

が二人の宗教観でもあった。

ふと振り返れば、今日も一人の自分がいる、少し気持を落としたものの、

杉の木々に身を委ねた三重塔に向う。どっしりと地に根を生やしたような落ち着きで私を睥睨していた。伸びやかな檜皮葺きの屋根が鋭角にせり出し、三間造りの端正な姿を見せている。上層は杉の木々を光景にして明るく浮き出し、下の二層は杉の中に埋もれる様に木々の深緑の中に順応している。鎌倉時代の造りだと言うが、幾世紀もの時の重みの中で、遠く小浜の街を見てきたのであろう。塔の初層には、釈迦三尊像と阿弥陀三尊像が祀られているという。二人連れのお方が、満足したような顔でやや勾配のある石のきざはしをゆっくりと下りてくる。

既に季節は過ぎたようではあるが、杉の花粉が日差しの中で、金粉をまいているように塔と二人に注いでいる。きらめく金色の花粉は四方にさざ波をおくるかごとく和邇の体も包み込んでいた。静寂の中に舞う杉の子供たちの乱舞、それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だった。

今にして思えば、この小浜、敦賀、などの若狭の深さを全く知らなかった自分に愕然とする。すでに帰らぬ人となった所長のあの張りのある顔が思い出され、

この若狭の朝鮮や中国とのつながりを話していた時の嬉々とした表情の意味が

少しわかったような気がした。それにしても遅すぎた。また一つ、後悔の一皮が増えてしまった。

 

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