那谷寺の鐘楼やお堂には、さりげなく注連縄が張られている。また、境内には
「若宮白山神社」と言う小さな神社が同居していた。しかも、お寺の中に注連縄
が張られた鳥居があるというのに、なぜか奇異な感じがしない。それほどに、
那谷寺の境内には独特の雰囲気がある。この寺を「那谷寺」と命名した花山法皇は、
第1番の那智山青岸渡寺と、最後の第33番谷汲山華厳時から、それぞれ
最初の那と谷の一文字をとった。さらに、法皇は、那谷寺を全国観音札所の総納め所
とし、自ら中興の祖となって、堂宇を復興した。そのため、鎌倉時代にかけての
那谷寺は、白山3カ寺の1つとして栄え、塔頭寺院が250ヶ寺も並び、
勅願寺院にもなっていたという。
那谷寺の護摩堂や鐘楼などは、いずれも見事な建築物だ。
三重塔は高さ11メートルあまりと小さいが、組み細工を思わせる工芸的な美しさ
を見せている。特に、壁面の唐獅子と牡丹のレリーフに目を惹きつけられる。
境内には、松尾芭蕉の句碑もあった。「奥の細道」の中の次の句が刻まれている。
石山の石より白し秋の風
芭蕉がここを訪れたのは、元禄年8月5日。新暦では秋であろう。
「奥の細道」には那谷寺について、「奇石さまざまに、古松植え並べて、萱葺の
小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也」とも書かれている。
「秋の風」は、古来より「白い」と言う表現がされている。芭蕉はその事を踏まえた
上で、那谷寺の石の壁は近江の石山の石より白く、そして清澄な白い秋風が
吹き渡っていると読んでいるのであろう。那谷寺の境内の森厳さや神秘的な雰囲気が、なんとなく伝わってくるようだ。
この白さと木々の緑、そして冴え渡っている透明な青さの空が信仰という所作に全く関係のなかった私に何かを見せようとしているのだろうか。
しかし、先には、那谷寺の白い壁にうがたれている洞穴があるのみである。
頂上にあるその洞穴にはいろうと私と太田さんは、「奇岩遊仙境」の一番上まで
上っていった。ここは、石段の幅がとても狭いうえ、足を踏み外せば断崖絶壁
でたちまち滑り落ちそうだ。下を見るとかなりおそろしい。
突然、あの時の情景がよみがえる。それは崇福寺という旧跡に向かって進んだあの日のお思い出だ。
すでに人家は途絶え、先ほどまで後ろに光り輝いていた湖の姿も消えた。
道は舗装から砂利道へと突然変わり、まるで俗世と来世はここだ、と宣言
している様でもある。まるで来世の自分を見せるかのように暗い杉の森が
目の前に広がっていく。歩を更に進めれば、杉の木立ちが天空の蒼さを被い
隠すように続き、見下ろすように立ち並んでいた。細い砂利道が真っ直ぐに
伸び、薄暗がりに消えていく。光明の如き薄い光がその先で揺れている。
わずかな空気の流れが私の頬をかすめていくが、聞こえるのは砂利道を
踏みしめ歩く我々の足音のみ、静寂が周囲を押し包んでいた。
はらりと何かの葉が足下に落ちてきた。さわりと、その音さえ聞こえて来た。
やがて二つに道がわかれ、標識には、「崇福寺跡五百メートル」とある。
上りの勾配がきつくなり、砂利道を歩く音に合わすかのように夫々の息づかいが聞こえ始まる。千年以上前に建てられたという天皇勅命の寺と言うが、
今まで歩いてきた風景の中には一片の証も見られなかった。
道が切り取られたような崖の間を抜け、右手の山へと続いている。歩けるように整備された細い道が山の端に沿って、上に向って伸びている。
ちょっときついな、と心なしか不安を覚える。上っては下り、下りを暫らく
感じると直ぐに上る。そんなことが暫らく続くが、案内人は黙々と
歩き続ける。小さな水の流れを渡り、また小さなきざはしとなっている山道を
上がる。膝とその周りの肉がそろそろ悲鳴をあげ始まった時、突然、
森が切れ、視界が広がる。
皆がここか、と互いに声を出し合う。そこは縦横二百メートルほどの広さを持ち森の重さがすっぽり抜けたように蒼い空の下に小さな草花を咲かせていた。
鷲か鷹か判然としないが、蒼き天空を2羽の鳥が旋回している。
彼らから見たら、我々はどう見えているのだろう、とふと思う。
彼らから見れば、単なる広場と思われる場所に10数人ほどの人間が
うごめいている。更には、遠く彼らの親たちは数百人の人間が天に念仏を
唱えながら日々暮らす姿を見てきたのであろう。滑稽なりと思ったか。
やや大きめの平たい石が十個前後その草原の中に3列に並んで置いてある。
寺の柱の基礎と案内人は説明していた。更にこの場所から谷を隔てて北と南に
同様の寺院跡が二つあると言う。
苦行は更に続いた。先ずは、先ほどと同じ様な道を南に上っては下り、更に上る。南の草原も先ほどと同じ様に数10個の平たい石が見えるのみ。小さなせせらぎを渡り、同じ様な山道を踏み外さないように慎重に上り、また下り、上る。和邇は、今日はこれで何回上がったり下がったりしたのか、そんな考えを
巡らしながら眼の前にある細い道を上がっていく。最後の一踏みを終えると
眼の先には大きな石碑が桜の木に囲まれるように建っていた。「崇福寺跡」と
掘り込まれた石が色づき始めた山の端を後背にして、鎮座している。
ここが本堂だという。石碑の前10数メートル先の石組のところで、案内人が
ここに釈迦のお骨が納められていた、と説明している。でも眼前にあるのは、
四つの石と中央の小ぶりな石のみ、本堂をイメージしようとするが、思うような姿は思い浮かべない。陽はすでに中天から外れ、徐々に秋の寒さを周囲に
撒き散らし始めている。背中に滲み出している汗が徐々に消えていく。
過去の栄華に想いをはせるには、余りにも小さすぎる広さだ、そんな事を
和邇は思う。すでに心は家路へと急いでいた。
岩壁を登りきったところに、洞穴が口を開いていた。なかは暗くてよく見えない。ライトをつけて照らすと、意外に奥は深く、なんとか立っていられるくらいの高さがある。このような洞穴では母親の胎内を思わせる洞穴に入って、一度そこで死の世界を体験し、新たに生まれてくる。再生して外に出てくるときは身も心もすっかり清められて真っ白になっている、と言われている。
洞穴に入ってみると、暗い洞穴の内部から見る外の景色が、非常に鮮やかなのに目を奪われた。木々の新緑が日の光をあびていきいきと輝いている。確かに、
しばらくこの洞穴ですごしてから外に出ると、あの世からこの世へ生まれ変わったような気がするのではないか。洞穴からでて、ふたたび、「生きている世界」
へ降りていく。2人とも黙ったままこの静寂を受け入れている。
今度はせまい石段を下へ降りていかねばならない。2人とも脚力には自信がないので怖る怖る第一歩を踏み出す。こう言う場所ではのぼるよりおりるほうが難しい。
一度下までおりて、ふたたび急な石段を右手の岩山の上へとのぼっていく。
そのうえには、那谷寺の伽藍のなかでも特徴的な「大悲閣」とよばれる
本堂がある。巨岩に寄り添うように「懸け造り」で建てられたものだ。岩屋の
高さにつくられている。おもしろいのは、拝殿は屋外にあるが、本殿は岩壁の中腹の岩屋の中に建てられていることだ。この本殿には本尊の十一面千手観世音菩薩像が安置されている。そして、参詣者は岩屋のなかをぐるっと一巡する事が出来る。これは、神社で行われる茅の輪をくぐってケガレを祓う「胎内くぐり」という神事と同じ様な意味を持つらしい。それと似たものに、せまい岩の割れ目をくぐり抜けるとご利益がある、という民間信仰が各地にある。
それも「胎内くぐり」と言う名前で呼ばれている。
母親の胎内のようにせまい空間に入って出てくることで、人間は生まれて死んで、また生まれる。「胎内くぐり」は自分の罪業を洗い流し、新しく生まれ変わってでてきたい、という人々の素朴な願望からうまれた信仰だと思う。
那谷寺でも、本尊の千手観世音菩薩像に祈りを捧げ、この岩屋を一巡りすることによって、新しい人間として外に出てくる事が出来る、人々は信じてお参りする。しかも、千手観世音菩薩像は千本の手でもれなく衆生を救い、利益を与えると言われている。観音様のなかでもきわだって強い力をもつ千手観音にお参りして、現世利益を願うのだ。我々の願いはあまりないもの、旅の達成と息子たちのことを祈った。そして、再び自分にとっての信仰とは何であったのか、心の内で自問した。
過去幾つもの悩み、迷い、そして挫折という道を通りながらも古来の人がその寄る辺とした仏への憧憬はなかったと言える。それが己の心の素直な姿であったのか、私を導いてくれる誰かの存在がなかったからなのか、今この観音の前ではよく分からない。ただ静かに私を見守っておられるだけである。
洞穴の中の暗闇が私の記憶を呼び出していた。
誰しもある時ふと、「もし生まれ変わることが出来たら、、」とかなわぬ
思いを抱くことがある。この科学万能のような時代でも、そうだろう。
死からの再生は神話の時代から永遠の人類の想いであった。夜空の月も
欠けては満り、草木はその一粒の種から新たなる生命を生み出すのだから。
人生儀礼にも、よみがえりの願望の中から生まれてきた行事や祭が彼方此方で
見られる。それは自身や家族の絶えることなき願望への現われだ。
満60歳を迎えた者は生まれたときの干支に再びめぐりあうので還暦と言う。
60歳の定年を迎えた人が「第二の人生」の旅立ちと言われるのもそこに
人生のよみがえりの想いがうかがわれる。稲作民俗は毎年一粒の種籾から
芽生える稲によみがえりを感じてきた。人もまた祭りや郷土芸能の中で
よみがえるのだ。愛知県のある村では、大神楽を復活させた。その中の
「浄土入りから生まれ清まり」までは、まさに死から生へのよみがえりの
行事である。また、福島の町では、二十歳までの若者が権立と呼ばれる
木の幹を削ったものを担いで山の岩の割れ目に飛び込みそこをくぐり
抜ける、母親の胎内くぐりの儀礼がある。郷土芸能には、それを苦難の
すえに祭りの日に成し遂げることで強い成人に生まれ変わる、ような
意味合いがあった。更に、我々は民俗宗教として人生儀礼を人生の中に
取り入れている。結婚式は神社で行い、お寺で仏式の葬式をする人が
ほとんどである。また、正月は初詣で始まり、四季それぞれに祭りや様々な
行事がある。その根底には、自然にも神が宿り、死後も霊魂となり、
先祖の守護を行うと信じ、それらのための儀式を営む。正月には神棚を
整え、盆には盆だなをこしらえ、先祖の霊を招き、送り火や燈籠流しで
先祖を再び送り返す。祭りを行うときには、聖なる場所を清め、五穀、餅、
神酒、塩、野菜、魚などで、神の降臨を待つ。祭主の祝詞により神は
祭りの挨拶を受け、願いを聞く。そして神は人々に生きるエネルギーを
与える。それは神と人の共存であり、芸能としても受け継がれる。
我々の生活はケの日常が続くと、活力が失せ、怠惰になる。非日常のハレ
の機会の祭日に神と交歓し、活力を得て、日常生活に戻るのである。
和邇は、4年前の病気以来、民俗学なるものに興味を持った。ここに
言う神との交歓を今少しづつながら味わっているのだ。
福井の海の見える景観から山並が、とくに白山の見えるこの道を歩いていると
その想いが強くなっていくのを感じる。それは自身の暗き世界に埋没した
怠惰な生活の逃げ道としての生まれ変わりの願望もあろうが、この鬱蒼
たる自然の森や林、清涼な川の流れなどの自然の織り成す力が人工的な力
を押し返す壁となり、自身の体に未だ巣食っている暗闇にささやかでも
明るさをもたらしているからだ、まだ続く坂道に己の体力の無さを呪い
ながらも、こう思った。
突然の本社からの呼び出しであった。遂に来るものが来たと思った。
6年前、ある部下の管理不足で、10億円以上の不良な在庫があることが分かった。
課長も含め私の管理不足であったのだが、そのまま本社へ報告すれば、本人の罷免は免れない、と判断し、私の判断で全てを内々に処理しようと思った。その判断が甘かったのであるが、その後のビジネスの不調で思うように処理できずに6年経ったのだ。監査部門のメンバーから数ヶ月に渡る尋問を受けた。
夜暗闇の中で自問自答した日々が蘇る。
「俺の目の前には暗闇しかない。
妻は横で軽いいびきを立てている。
今日の尋問は厳しかった。私を辞めさせようとしている様だ。
何時間過ぎても、この暗闇に朝の光が見えてくるようには思えない。
闇の罹ったような思考の中で、「責任を取って退職すべきか、会社の判断に従うか、支持を受けて処理してきた部下の扱いはどうなるのか」が先ほどから
何回となく浮かぶ。
明日には退職の勧告が来るのだろう」
眠られぬ日々が続いた。
家族にも言えずに、数ヶ月が過ぎた。さすがに妻も私の変調に気付いたが、
何も言わなかった。それだけでも、気持が楽になった。
結果は、部下も含め1ヶ月の減俸であった。兎に角誰も退職のような最悪の結果にならなかった。報告を受けた日、部下には今までの苦労に対し、お礼を言った。今では本人たちとは苦労話として語っていられる。
ふと想う、私にまだ生きていく時間が与えられているのであれば、再びこの地を訪れる自分がいる。多くの千手観音菩薩があれど、この菩薩の前にいる自分が明瞭に見えた。
太田さんも、横で周りの空気を感じているようでもある。
「福井住んでいながらここは知らなかった。静かですね」
「私は、福井生まれで、卒業後、暫く東京で過ごしたんですが、あの騒々しさは肌に合わず、数年でこちらに戻ってきました。その後は、結婚して2人の子供がいますが親父は損ですね。家に帰っても、あまり会話もなく、家内が死んでからは、家に寄りつきませんよ」やや自虐的な思いが伝わってくる。
私もそうですよ、と言ったものの、やるせなさを感じる空気となった。
「お前たち、毎日ダラダラと何をやってんだ」、怒鳴り声とともに、息子たちを
感情に任せて殴った時の自分が思い出される。
そして、その時の息子たちの反抗的な眼が私を捉えている。
「なぜ、親父は直ぐに殴るんだ、訳も分からずに殴っていいのか」。
「親父はよく分からん、普段ほとんどいないし」。
中学、高校と息子たちとの会話は少なくなった。そして、これが普通の家族だという勝手な想いがあった。
高度成長期をまともに受け、その中で精一杯頑張ってきたお互いの思いが、
夫々の心の中で何かを叫んでいる。行き場のない60代の世代、私も含め、
この恨みにも似た感情を何処へ吐き出せばよいのか、疑問と憤怒の気持は墓まで持っていくのだろう。単に時が来て、我が身が土に帰るのをただ待つだけなのか。
同年代の仲間や知人の多くは、悠々自適と宣言して、新しい道に入ろうとするが、多くの人は、組織から外れた時の自分のひ弱さを感じ、何も出来ないまま歳を重ねる日々が彼らを待っている。まあ、それも人生の1つかもしれない。
太田さんも、そうなのか、ふと彼の赤みを帯びた横顔と真っ白の髪を見る。
垂直に伸びている杉の木立の間を縫うように日差しが戻ってきた。幾筋もの光の帯が岩肌に注いでいく。そのごつごつした岩肌から薄煙のような水蒸気が立ち昇ている。どこかで、ほととぎすであろうか、のんびりとした風情が、
この清浄を包み込んでいる。
しかし、久しぶりに自然を感じますな」。ぼそっとどちらが言うのでもなく、
言葉がこぼれる。昔教えてもらった短歌、「山寺の石のきざはし下りくれば
椿こぼれぬ右にひだりに」が突然よみがえった。
緑一色の中に、しばし、2人の老人が呆けたように、空を見上げる。
空から一粒二粒と雨が降りてきた。見れば、先ほどまでの青と緑の世界は
一変していた。
日が雲におおわれたので、山肌の色はやや険しい暗い緑になった。そのなかに、
東から西へながながと伸びた白い筋がある。巨大な中啓のような形をしている。
そこだけ平面が捩じれているように見え、捩じれていない要に近い部分は、中啓の黒骨の黒っぽさ以て、濃緑の平面に紛れ入っている。
日が再びあきらかになったが、雲は鰯雲になって、空の半ばを覆った。日はその雲の上方に、静かに白く破裂している。
空の何処かから囁くような声がした。
「お前には家族がいない。友もいない。なにも残っていない。生きることの必然性がない。抜け殻の自分を早く知れ」
その声を聞くと同時に、疲れきった体が崩れ始め溶けはじめる。肉体が腕の先や肩から腐れてはじめ、みるみる骨が露わになり、白く半透明の液体となって流れ出し、その骨さえ柔らかく溶けはじめる。意識はしっかりと両足で大地を踏みしめているけれど、そんな努力はなにもならない。黒き闇に充たされた空が、怖ろしい音を立てて裂け、必然の神がその裂け目から顔をのぞかし、にやりと笑う。彼はその必然の神の顔を避け、忌まわしい過去の亡霊をかき消そうとする。輝かしいだが古き存続の美しきものを見ようとするが、何も見えない。
心に映ろうとさえしない。一つの悪しき想い、それがつながりとなり、色褪せたフィルムのように切れ切れになりそうながらならず、心の中に擦り切れた映像となって流れすぎていく。
自分の存在は何処にあったのだろう、その想いだけが幾重にも重なり足下に
積み重なっていく。時間の流れの中で、その解を求めようとした70年の歳月のみが何層にもわたる悔悟の念を増すのみのようだ。
俺の人生もそんなものか、ぺらぺらとめくる正法眼蔵随聞記の一文にそれがあった。
「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古人曰く、百尺竿頭かんとう如何進歩と」
この出典は、「百尺竿頭かんとうすべからくこれ歩を進むべし、十方世界これ全身」から来ている。とにかく高い竿さおの先端に立っていて、そこからさらに宙空に一歩踏む出せと言っている。ただ、その竿は断崖絶壁に突き出しており、人生とはそのようにバランスを取りながら竿の上を行くものだ、やっとここまで来たと言う想いがあるものの、もう先は行き詰まりだという状況となったとき、「すべからくこれ歩を進むべし」一歩を踏み切れと言っているのだ。そこで、踏み出したらどうなるか、落ちて行く自分も感じない、身も心も脱け落ちたような自分が無になってしまう。
そうなった時、十方世界、つまり全宇宙が逆に自分の身と一致する。あるいは、
自分が全宇宙にまで広がっていく、と言っている。
踏み切れない自分、想像するだけで竿の先の一歩にいけない自分、この雑然とした暗闇の中に座している自分がいた。
季節をよく現しているのに、二十四節気の考え方がある。
元々、二十四節気は、中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、
季節を春夏秋冬の4等区分にするために考案された区分手法の1つで、1年を
12の「中気」と12の「節気」に分類し、それらに季節を表す名前が
つけられている。
なお、日本では、江戸時代の頃に用いられた暦から採用されたが、元々二十四節気は、中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もあるとの事。そのため、それを補足するために二十四節気のほかに土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取りいれたのが、日本の旧暦となっている。
二十四節気の名称は、発明された当時の物がほぼそのまま使われている。
節気名称は実際の気温よりは太陽の高度を反映したものとなっている。このため、日本では独自に雑節が設けられたり、本朝七十二候が作られたりした。
名称の由来を種類別に分けると以下のようになるだろう。
昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の中間点) - 春分・夏至・秋分・冬至昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の始期) - 立春・立夏・立秋・立冬気温 - 小暑・大暑・処暑・小寒・大寒
気象 - 雨水・白露・寒露・霜降・小雪・大雪
物候 - 啓蟄・清明・小満
農事 - 穀雨・芒種
しかし、冬の終わりから周りの変化を見ていると、特に 雨水、啓蟄、小満、
穀雨、芒種には納得感がある。草花の成長、農作業の動きが何と無く
伝わってくるからだ。冷雨が少しづつ暖かさを増し、虫や人々に次への活動
の源となっていくのだ。私の居る湖西は、まだこれらの言葉が素直に感じられる姿を残している。あらためて、20年前に今の住まいに移り住んだ事を感謝した。
これは、長男の大きな手柄であろう。
東北を旅した柳田國男の文章からは、それがよく伝わってくる。
「ようやくに迎ええたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも
超越する。例えば、奥羽の所々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、
風は柔らかく水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日
が少し続くと、ありとあらゆる庭の木が一斉に花を開き、その花盛りが
一どきに押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、
袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している暇もない
うちに艶麗な野山の姿は次第にしだいに成長して、白くどんよりした
薄霞の中に、桑は伸び麦は熟していき、やがて閑古鳥がしきりに啼いて
水田苗代の支度を急がせる。」(雪国の春より)
さらに、山から流れ出てくる感のある水と拓けた大地を見ると、あらためて、
水への尊敬の念が芽生え出てくる。唐木順三、柳田國男、白洲正子、いずれも、
日本の原風景を求める中では、水に対する関心、水への尊敬の念は、
「日本文化の一つの特色を成しているようだ」と言う。
水は、生活条件の1つではあるが、同時に日本では、それが、文化や芸術の条件でもあった、と言っている。
山水という言葉が直ちに風景を意味するということは、日本人の自然観、
風景観を物語ってもいるだろう。水墨画、墨絵には水は殆どつきものといってよい。
寒山詩の中に以下の一句がある。
「尋究無源水、源窮水不窮」
人は、結果から原因を探り、根本原因まで遡る。
水源は、探求され、解明されたが、水は相変わらず滔滔と湧き出ている。私の周辺でもそのような光景が散見される。
先ほどの柳田國男も「雪国の春」の中で、さらに以下の様な想いを語っている。
幸い、私の周辺は、まだその自然の息ぶきが少しながら残っている。
有難い事である。
「要するに日本人の考え方を1種の明治式に統一せんとするが非なる如く
海山の景色を型に嵌めて、片寄った鑑賞を強いるのはよろしくない。
何でもこれは自由なる感動に放任して、心に適し時代に相応した新たな
美しさを発見せしむに限ると思う。島こそ小さいが日本の天然は、色彩
豊かにして最も変化に富んでいる。狭隘な都会人の芸術観をもって指導
しようとすれば、その結果は選を洩れたる地方の生活を無聊にするのみ
ならず、かねては不必要に我々の祖先の国土を愛した心持を不明なら
しめる。いわゆる雅俗の弁の如きは、いわば、同胞を離間する悪戯
であった。
意味なき因習や法則を捨てたら、今はまだ海山の隠れた美しさが、蘇る
望みがある。つとめて旅行の手続きを平易ならしむるとともに、若くして
真率なる旅人をして、いま少し自然を読む術を解せしめたい。人の国土
に対する営みも本来は咲き水の流るると同じく、おのずから向かうべき
一節の路があった。、、、、、緑一様なる内海の島々を切り開いて、
水を湛え田を作り蓮華草を播き、菜種、麦などを畠に作れば、山の土
は顕れて松の間からツツジが紅く、その麦やがて色づく時は、明るい
枇杷色が潮に映じて揺曳する。ひばりやキジが林の外に遊び、海
を隔てて船中の人が、その声を聞くようにな日が多くなる。」
人への便利さは重要であるが、このような情景との共存はありえないので
あろうか。
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