2016年2月6日土曜日

敦賀から越前まで


ここからは、若狭街道をただひたすら、三方五湖を背にして、敦賀を目指す。

三方五湖は、その昔も、静かになだらかな山裾の中に、水面をたたえている。

もう30年以上も前に、秋の紅葉時期に、ここを訪れたことがあるが、

水月湖を初めとして、あまり人の手が及んでいないのであろう。静かなる

水面には、紅葉の木々の様々な色合いが映っていた。紅いもみじが黒々とした

杉の木々の中に、点描の如く散りばめられ、湖岸の近くには、イチョウの

黄色が静かに波立つ湖面に揺らぎを与えている様でもある。舞い落ちていく

紅葉の彩りが湖面の上に浮かび、やがて水底へと消えていく。

ここには、時間と言うものが存在しないが如く、多分、30数年前と同じ

景色が広がっているのであろう。

 

 

海が道路の近くまで迫り、白い泡を放ちながら、岩の間に消えていく。冬のあくまで灰色の世界、空と海の境が春の霞の中に消えている日本海、べったりと夏の暑さを染みとおしたような夏の海、彼はこのような海を何回となく見てきた。この三方五湖は、彼にとっても思い出が綴られている場所である。また、この地の風習、文化にも少し深く触れた場所でもある。何度か泊まった民宿の女将の紹介で、祭にも顔を出した。祭りの当番役が神のシンボルである御幣を作る。更には、座敷に作った2メートルほどの幣串につけた大御幣があり、御幣とともに、村立ちをする。

朝からの振舞酒でみんなうかれて楽しそうであり、大事な御幣をかかえ、氏神の境内へと練り込む。この春祭りは三方周辺で10数箇所あり、室町時代からの祭りの一端を見せてもらった。神社の境内やお旅所では、朱色の神面をつけ、

赤い衣装をまとった王の舞が鉾を天地左右に振って、悪魔祓いをし、田起こし

の演技をする。素朴だが、豊作を願う芸能が春祭りの日に神に捧げられるのだ。

当時は、人も多く、祭りを行うもの、参拝するものが入り乱れ、その活気のある様に感激した。町内で繰り広げられる神輿担ぎの空気とは違う、神の存在さえも信じるこれらの息づかいは、この時の私の気持にも、何か掴みようのない心地よさを与えた。

 

 

かなり汗ばんできた体の動きは、少しづつその進みを緩やかにしつつ

あり、ふと、夏でも、涼しい「瓜割りの滝」があることを思い出す。

お寺全体がひんやりとした空気感に包まれ、その涼しさに結構、人気がある。

 

20数年前、電力会社の仕事をしていた時は、四季折々、高浜、大飯、美浜

とよく出向いてきた。美しい砂浜を過ぎ、車が右手に折れた時に現した

原子力発電所の威容を誇る姿に圧倒されたこと、小雪舞う中で作業する

人々との出会い、近くの宿で食した蟹雑炊の美味かったこと、休日に

湾の中で無理にお願いして、釣りとしゃれ込んだこと、静かな五月の海

を見ながら、既に過去の良き思い出となった日々が、追想される。

福島の被災以来、原子力発電が悪の権化のように言われている時代

とは、全く別の日本の成長を支えるエネルギーとしての良き時代

でもあった。そして私たちを育ててくれたエネルギーの基でもある。

此処には、良き思い出が多い。点と点として行過ぎるのではなく、

面としての自分がいた。そして、ただひたすら人生を生きようとする

若い自分がおり、少し人生を感じ取り始めた壮年の自分がいた。

人は、熱している時、一途にそれを成し遂げようとしている時、

悪い思いでは残さないのであろう。

初めて敦賀駅を降り立った時、小雪舞うプラットホームの寒さと

その静寂さに、少し身じろいだ。また、夏の暑さが、コンクリートの

白さを更に、白くしながら、顔を差して来る。

敦賀駅の無機質な空気は夏でも、冬でも、相も変わらず、私を攻め立てた。

しかし、ここから海に行くまでに、状況は一変する。綺麗に舗装された

道路を何回となく曲がり、小山をすり抜けると、突然広がる日本海

のそのやや荒々しい出迎えは、私をホットさせた。

遠く霞む線は、何処までも一直線に伸び、そこに、少しばかりの雲が

ちょんと乗っている。ここでは、白く続く砂浜は期待できない。

切り立つ岩肌と打ちつける波のほとばしりがあるのみ。

私は、その荒らしさと海の強さを感じる泡沫の激しさが好きである。

やがて見えてきた原子力発電所特有の丸いドームとそこから一直線

に伸びる送電線、大きな白の煙突、そしてその周りを多くの人達が

女王蜂にかしづく働き蜂の如く動いている。陽は既に、中空に上がり、

その光の中、ゆらゆらと登る水蒸気とドームからの照り輝きが、周囲を

覆っている。そこには、人間の英知で出来た空間がある。

既に、あれから20数年余、しかし、何10回となく、その情景に

接して来た。春のそよ風ののどかさ、夏の陽のまばゆさと長さ、

秋の潮風の心地よさ、冬の風と雪の横ぶれ、全てが自身をすり抜けていく。

その想いが、身体をテンポアップしているかのように、足取り

も軽くなった。右足から左足へ滑らかの動きで進める。

広い道路の横をややテンポを早め、2両編成の電車に手を振り、

遠くやや霞んでいる半島と点描される小さな島々の淡い緑に少し癒される。

 

こうして、歩いていると、ハロルドの巡礼の一節が浮かんでくる。

「こうして自分の足で歩いていると、人生はこれまでと全くの違うもの

に見えてくる。土手の隙間からのぞく大地はゆるやかに起伏し、やがて

市松模様の畑地に変わり、それぞれの境界に生け垣や木立が並んでいる。

ハロルドは、おもわず脚を止めて目を凝らした。緑にもたくさんの

色合いがある事を知って、自分の知識の足りなさをいまさらのように

思い知らされた。

限りなく黒いベルベットの質感の緑色もあれば、黄色に近い緑色もある。

遠くで、太陽の光が通り過ぎる車をとらえた。たぶん、窓にでも

当たったのであろう。反射した光が流れ星のように、震えながら、

丘陵地を横切った。

どうしてこれまで一度もこういう事に気付かなかったのだ?

淡い色の、名前も知らない草花が生け垣の根元を埋め尽くしている。

サクラソやスミレも咲いている。」

 

残念ながら、今眼に入る景色は、全く違う。

その多くは、風雨に晒され、その強さを誇示するが如き、杉の木立

たちである。あるものは、やや後ろに反り返り、あるものは、やや

その劣れを隠せず、茶色の肌が白くなり始めている。白い道路と

黒く光る杉の小山が、そのコントラストを際立たせているようだ。

ハロルドの場合とは違い、私を動かしているのは、過去の楽しい

思い出のようである。

数台の車が、私をせかすように、通り過ぎて行く。

幾つかの工場の柵と生垣をただまっすぐに歩く。やがて、視界が

開け、大きな橋を渡り、右手奥に、JRの高架が見えてきた。

そこを薄ピンクに赤いストラップのある特急が轟然と走り去った。

敦賀の駅である。

日本の駅前の景観は、どうしてこのように同じに見えるのだろうか。

駅前のロータリーとアーケードに何店かの店と直ぐ近くには、

ご当地の金融のお店、最近は、それもほとんどがシャッター通り

と化している。そして、少ないひと通りに何処からか、石川さゆりの「津軽海峡雪景色」の歌が、聞こえてくる。もう既に、初夏の季節のうつろいだと言うのに。赤や黄色の原色に彩られた幟や看板がある、そして少しさび付いたアーケードのある商店街を歩いていると、ふと思い出す。

もう10年以上になるのだろうか、仕事の関係でスペインに行った。

スペインの町々での奇異な経験が浮かんでくる。

所謂、シェスタと言う午後になると店が一斉に閉まり、昼寝に入ると言う

習慣との出会いである。朝には群れるようにいた人々が突然、姿を消す。

店はシャターを下ろし、高いアーケードから差し込む光が何か高貴な空気を

発しているような光景である。歩いているのは、私1人であり、静寂と

光と暗闇の交差する世界となる。僅かに動いているのは、野良犬であろうか、

餌を探して、その光と暗闇が織り成す世界でただひたすら今日の食糧を探し

回っている。陽の光の中で、自分一人だけが存在することの不思議さを

このシェスタと出会うたびに思い出す。

そして、人間は人と人の中で生きるものと言う事実をあらためて突きつけられる感じでもある。人々が発する様々な音が、光景の1つとなり、店店の持つ

光がリズムを起こし、それが喧騒となって、行きかう人々にエネルギーを

与えるが如く、人は人に依存している。一人が佇む世界では、その生気は

生まれ得ない。ただものとしての在り様が問われるのみである。

スペインは、他にも幾つかの国に行ったが、一番、自分の肌に合うと感じた国である。

日本が木を中心とする生活文化であり、スペインは石をベースとする文化の

違いはあるものの、家々の中にある坪庭の風情、食べ物の嗜好、などが私を

楽しませてくれた。石畳と白壁の家々が私の心に馴染んだ。透き通るような青空と赤い岩肌、白い砂浜が私の眼を安らかにした。黒い瞳の目鼻立ちのしっかりした女性の微笑が私を和ませた。

もっとも、そのためにスペイン語を修得しようとしたが、途中で挫折した。

毎度のことではあるが。しかし、あの光の強さとからっとした空気感は、

いまだスペインへの想いを消し去ってはいない。

 

そんな夢想の中、でかでかと掛かった看板の「鮮魚、焼き鯖の文句につられて、

店先でチョット一休み。生魚と焼き魚の香ばしい匂いが私の身体を包んでいく。

「親父さん、最近はどう?」

「全然、ダメね!」「世の中、景気のいい話があるけど、この辺じゃ

なにもないよ」「お客さんはどこから?」「滋賀」

「滋賀からか、チョット遠いね」

丸坊主に白髪が申し訳なさそうに乗っている、人のよさそうな店主が答えた。

初夏の日差しが、アスファルトから攻め立ててくる。

扇風機がやや静かに回り、その古さと魚の匂いをお互い絡めとりながら、

右から左へと回る。前の店の饅頭屋では、同じ様な店主が手持ち無沙汰

なのか、こちらを気にしてニコニコ笑っている。皺のある赤らんだ顔に

口ひげが太く短くのっている。店の前の椅子にそのたっぷりと腹の出た

身体を乗せて新聞を読んでいるその姿からは、日頃の苦労は感じられない。

悠久とした時の流れが彼をして見えてくる様でもある。

その顔は、人生を謳歌しているようであり、これが人の幸せと言うもの

なのであろう。

その横の海産物を扱う店によって見る。敦賀はおぼろ昆布で有名である。

以前にも、泊まった日には朝食、夕食に出されたが、そのほろ甘く舌に

とろける感触は今でも忘れられない。奥から出てきたおばさんが湯に溶かした

昆布を「一杯どうや」と差し出してくれた。また元気が出た。

近くの昆布館に行くとその説明がある。

「北前船時代、寄港地の一つであり、京や大阪の北の玄関として賑わった敦賀。

様々な物資が行き交い、集積された物資の中で代表的なのが昆布です。

今の北海道である蝦夷や松前の昆布は敦賀へと運ばれ、熟練の職人達により

加工されます。これが敦賀特産の昆布として上方へ運ばれていたことは、

江戸時代後期の書物「日本山海名産図会」でも記されています。

現在でも敦賀特産の昆布は、京都や大阪の多くの高級料理店に昆布ダシ

として愛用され、味の土台を支えています。

この他、手すきおぼろ昆布や昆布巻きなどの料理、お菓子など様々な加工品も

作られています。中でも手作業により薄く削られた手すきおぼろ昆布は、

素晴らしい職人技として全国的に有名で、全国の85%の生産を誇ります」とある。

昔、敦賀に出張でよく泊まった宿屋の主人を思い出す。

浅黒い顔に細い眉毛が申し訳なさそうについていた。二分に刈り上げた坊主頭が顔全体に凄みを与えている。尖った顎には、いつも無精ひげが白いものを

混ぜながら張り付いていた。しかし、いつもニコニコと良く笑っていた表情から優しさが流れ出していた。彼の顔を見るとほっこりしたものである。

元は漁師さんとのことで、良く冬の夜の海の情景や蟹の料理について話をした。

蟹はその足が少しでも欠けるとその値は半分以下になると聞いた。

でも、味は一品よ!彼の口癖だったが、ものは試し、と一度

我が家の送ってもらったが、さすが言うだけのことはある、と

家族全員の満足な顔を覚えている。

でも、雪混じりの夜に、ぐつぐつと煮え返る、宿屋で、皆で食べた鍋と

赤く太い足の蟹鍋の美味さは格別だった。それに昆布だしが入ると最高の旨みとなる。

あれから20数年も経った。歳月は私の横をすり抜けるように足早に

駆け抜けていく。

原子力の円いドーム、綺麗な砂浜、小雪降る窓辺、茹で上がるカニ達

一枚、一枚のショットが、頭の中を駆け巡る。

 

気比の浜は、大通りをまっすぐ進むと松林の中に見えてくる。

確かに、神社までの白砂は美しく、白く陽の光の中で、輝いている。

日本海の海は、そのややどんよりとした青さをたたえ、幾筋かの

白波を描いている。その海と白浜に沿って平均樹齢200年を超える

アカマツ・クロマツからなる17000本の松林が続いている。

少し寒さを含んだ風が私の頬を撫ぜつけていく。

海は松原越しに眺めるのがもっともいいという日本古来のの美的視点

が牢固として我々の伝統の中に息づいている。

古来から大陸との交易の盛んだったこの地において、気比の松原を持つ

敦賀は日本の独特の情景を生かしている点ではどの地方より恵まれている。

弓なりの白砂の渚にざっと2万本近いの松が大いなる松原をなしている景観

というのは、最近の日本ではもはや伝統の景観と言うより奇観ではあるまいか。

松原に、わずかに日照雨(そぼえ)のようなものがふりかかっている。

松原越しの海は、水平線が白かった。越中でも加賀でも越前でも、北陸の海

は鉛のように白いというが、今日の敦賀の海はわずかに緑がかっているように思える。

その緑の分だけ、海も春から夏に変わってきているようでもある。

 

この静かさは、その昔、朝鮮の特使が此処から西近江路を通って、京都に

向かった時代のままであるような気もする。今、私はその逆の道を通り、

新たなる一歩への歩みをしているのだろうか。

松尾芭蕉もここ鶴賀に逗留し、この神社に来ている。

おくの細道の敦賀での描写

「その夜、月殊に晴れたり、「明日の夜もかくあるべきにや」といえば、

「越路の習い、なお明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒勧められて、

気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間

に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を敷けるがごとし、往昔、遊行二世

の上人、大願発起のことありて、自ら葦を刈り、土石を荷い、泥汀を

かわかせて、参詣往来の煩いなし、古例今に絶えず、神前に真砂を荷い

たまう。「これを遊行の砂持ちと申し侍る」と、亭主の語りける。

 月清し遊行の持てる砂の上

15日、亭主のことばにたがわず雨降る。

 名月や北国日和定めなき」

(気比の明神に夜参りする。ここは、仲哀悼天皇の御廟である。

神社の境内はいかにも神々しく、松の木間に月光が漏れさしている

有様は、神前の白砂がまるで一面に霜を敷いたように見える。

月清し 遊行の持てる 砂の上)

 

気比神宮はそこから10分ほど歩く。松林の少し途切れた中に、少し背丈の

低い松に囲まれ、ポツねんとあった。

大宝2年(702)の建立と伝えられる気比神宮は、北陸の総鎮守であり、

敦賀っ子には「けいさん」と呼ばれて親しまれている。高さ10.9メートル

の大鳥居は、木造としては春日大社、厳島神社と並ぶ日本三大鳥居の

ひとつに数えられている。本殿に続く白石を踏みながらここを奥さんと2人で

歩いた記憶が鮮やかに蘇る。秋のさわやかな潮風と松林のさらさらと啼くさえずりが2人を取り囲んでいた。日本海の少し黒ずんだ蒼さと透き通るような蒼さの中天が我々を見下ろしていた。足元に続く白石にはごく短くなった2つの影がくっきりと張り付いたように動かなかった。

「気持いいわ」この嘆息にも聞ける言葉が今でも忘れられない。

少しまじめに「二礼二拝一礼」、神さんを信じるわけではないが、安全

祈願、なんとご都合主義のやり方か!

でも、正月だけ神社参拝をする日本人ですから、許されますね。

気比の浜を過ぎると、その青さを少し押さえたような日本海が果てしなく

続く。さらに、若狭湾の青さが眼に飛び込んできた。

両端の茶褐色の岩肌と杉の木立が1つのフレームを創り、その中に

幾つかの波の筋が寄せてくる。遠く地平線には、3つほどの雲が

水平線にまたがるように浮かんでいる。中天の陽は、あくまでも白く

透明感ある世界を作り出している。

少し痛み始めた右足に、もう少し頑張って、と数回叩いてみる。

ジワーと頬を汗が流れて行く。

あれは、鷲であろうか、蒼く広がるキャンパスのような水面を

ノンビリと周回している。

旅人一人と鷲が一羽、ほかには、誰もいない。

走る車さえも、遠慮したのか、静寂の世界である。ただ、シューズの

摺り足の音が、聞こえるのみ。

少し起伏のある道の先には、何があるのか、少し先のカーブの先には、

何があるのか、赤く塗られた橋の先には、何があるのか、頭の中の

白紙には、次から次へと様々な絵が描かれては消えて行く。

この忙しい中、誰もが、その描かれて行くスピードを落とすことはない。

でも、そのスピードを少し落とすだけで、気が付かなかったシーンが

見えてくる。歩くとは、そう言うことなのかもしれない。考えるとは、

そういうことなのだ。

司馬遼太郎もここを訪れ、この眺めを以下のように書き綴っている。

「金ヶ崎城跡は、敦賀湾を東から抱く岬である。この南北朝のころの城跡

にのぼると、敦賀湾が見下ろせる。目の下に敦賀港の港湾施設が見える。

貯木場に木材がびっしりうかんでおり、いうまでもなくソ連から運ばれて

きたシベリアの木材である。敦賀港という北海にひらいたこの湾口が、

昔もいまも、シベリア沿海州からやってくる人間や物産の受け入れ口

でありつづけていることが、あたりまえのようでもあり、伝奇的なようでもある。江戸期、北前船が華やかだったころは、敦賀港のにぎわいは非常なものであった。とくに北海道物産の上方への移入は、敦賀港がほぼ一手にひきうけていた。物産は主としてニシンである。このため、敦賀の海岸にはニシン蔵がびっしりならんでいた。そのニシン蔵の群れは10年ばかり前までそのまま残っていたが、いまはない。そのうちの一棟だけが、市内の松原神社の境内に記念的な建築物として移築されている。この記念のニシン蔵は、北前船当時のにぎわいをしのぶために残されているではなく、幕末の一時期、水戸からやってきた政治犯の牢屋として使われた事があり、その事を記念している。」

 

金ヶ崎城跡に立ってみる。既にその当時の賑わいも船の出入りもない。港は眼下にある港内は静かな佇まいを見せている。多分当時と同じ様にシベリアから来たのであろうか、防波堤の横から細く長い木材の群れがその面影を残すかの如く浮かんでいる。

当時の建物は煉瓦造りの茶褐色の連なりを見せていたのであろうが、今はやや黒ずんだ灰色の倉庫が規則正しく並んでいる。白い波しぶきを上げながら漁船らしき船がまっすぐ波止場に向かっており、そこにはトラックが数台動いている。人も船も、全てがこじんまりと静かに動いている。当時の面影は何もない。

時は移り気である。この街を大きく変えているようだ。

金ヶ崎城跡からなだらかな起伏の続く道を更に進む。

この道は、どこまで続くのたえず横にある海を見ながら歩いて数時間、足の痛みは少し増えたが、相変わらず、蒼い海と白い道と透明の空と松の林が続く山肌が続く。ただ、中天の陽は、既に西の空に寄り添うように傾き始めている。

やがて道は大きく右に曲がり、山肌を縫うように、這うように、伸びている。

同じく司馬遼太郎は敦賀から越前への情景を書いている。そして、その変わりようを体験する事となった。

「敦賀は越前国の西の端である。

ここから越前国の本部へ入るには、東北方蟠っている大山塊を越えねばならない。その山塊を越える道は、上古から中世までは木の芽峠のコースしかなかった。越前三国から出てきた継体天皇も木の芽峠の瞼をこえて敦賀に入ったであろう。また戦国末期に越前朝倉勢を討つべく敦賀に入った織田信長の大軍は木の芽峠を越えることなく近江の浅井氏の敵対のために敦賀から退却せざるをえなかった。幕末に武田耕雲斎の私軍も、この木の芽峠を越えて敦賀に入ろうとし、峠の麓の新保という村で武装解除された。

木の芽峠の大山塊の下を全長13キロ、世界第5位という北陸トンネルが開通

してから道は寂れてしまったらしい。というより自動車道路として海岸道路が

ひろげられてから、みなそれを通り、わざわざ木の芽峠を越えるような車が

なくなったということもある。、、、、

この大山塊は海にまで押し寄せていて、その山足は地の骨になって海中に

落ち込んでいる。海岸道路は、潮風のしぶきをあげるようなその岩肌を開釜

してつくられており、道路としてはあたらしい。

山と海、場所、季節違うけれど、どこか比良の山並と湖の並存の景観と合わせ

感じいる。昔の歌集である「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

今は、初夏であれど、この歌のような景観が四季めぐりて起きている、ふと

感傷的な気分が暑く指すような日差しの中で湧き上がる。

比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く

人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする

岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ

見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 

磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ

唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ

もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし

氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり

よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、今でも11月頃になると比良では同じ様な景色が見られる。

このほかに、周辺の地域で歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」

「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」

が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に

して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は

「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の

高嶺」を詠んだ代表的な歌があった。

春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。

雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく

近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな

桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖

夏は、「ほととぎす」が詠まれている。

ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。

ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 

今朝の白雲もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ冬には、「雪」「風」が詠まれている。

吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)

せで止まめやは楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟

我が比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛されていた。

都が近かった事もあろうが、此処はどうであろうか、この景観を詠みこんだ

人はいなかったのであろうか。幾筋も流れる汗を感じながら、そうおもった。

「海岸道路をゆくと、ときに右手にのしかかってくる大山塊の威圧のために海へ押し落とされそうな気分になる。北陸において日本史にもっとも重大な影響を与えたものはこの大山塊ではないかとおもったりした。」

時を経ても大山塊はここに存在する。今この舗装された道路は当時と比べれば

広く風雨にも負けない強さを持っているのであろうが、人間への自然の尊厳さ

を示すことにおいては変わっていない。車と言う交通の便利な道具を

使っているとその感覚が薄れるが、歩いていると右から寄せる山肌と赤松や

黒松の群れが歩いている私を押し倒し、左手にゆったりとした姿を見せる

敦賀湾のやや青みを帯びた海面に突き落とすのではないか、という錯覚を

起こす。その道が少し山あいへと向きを変えた時には、その威圧感から

開放された安堵感がふつふつと沸きあがってきたのは不思議ではない。

そろそろ、身体も限界と感じ始めたそのとき、トンネルを抜けるとそこは盆地になっており、越前の街全体が夕日に映える森や林、川が薄赤くなった中に大きな黒いシルエットを作っている。赤い光の中で、市役所と思われる少し高いビルとそれを取り巻くように幾つかのビルがまるで箱庭のような趣きで建っていた。その昔旧城下というのは、町の中を運河が流れ、その両岸の石組みが見事だったし、運河に沿って柳の並木が並んでいたといわれているが、その面影はどこにも見られない。単なるコンクリートで塗り固められた町並みである。

もともとこの地は奈良時代から越前の国府であり、古くは国府、やがて府中、そして武生となり、平成の合併後越前となったのだ。しかし、街を少し散策すると古き日本の文化の一端を感じる。予約した旅館に行く道すがらにも、格子戸の家並み、数寄屋普請を味あわせる家、狭い土間に古風な看板をかけた蕎麦屋、などが目に付いた。この地で、茶釜を製造していた、と聞く。

応永年間(13941427)に筑前芦屋から鋳物師が移住したという伝承があり、

室町幕府三代将軍足利義満の次男義嗣が応永25年(1418)兄の四代将軍義持の命を受けた富樫満成により殺害されたあと、その遺子である嗣俊が越前国に下り鞍谷公方となっているところから、茶の湯をやるために筑前芦屋から鋳物師を招いたのではないかとされている。 越前では、武生の五分市などでも鍋釜などを鋳出してしていたが、筑前芦屋から鋳物師が移住し茶之湯釜を鋳造した影響を受けて、五分市でも文様を付けた真形釜や甑口釜を鋳造するようになった。

日本文化の源といわれる室町時代の名残がここにもあるのだ。そして、

時代の波にも乗らずその頑固さで、今では別な新しさを醸し出しているようだ。

現代の持つ忙しさと空虚さはここまで押し寄せてきていない、そんな想いが

胸を過ぎる。最近の地震や風災害で街が変わるとそこに住む人の心やつながりまでもが大きく変わっていく。そんな話やメディアの報道が良く聞かれる。また、災害などがなくとも、街の変貌に合わすかのように人も変わっていく。これから訪問する場所を含め、日本の各地で営々とそのような変化が起こってきたのだろう。

出来れば、この街のように町も人も頑固にその姿を守って欲しい。

私の住まいする志賀の里も、出来ればこの街のような頑固さを続けて欲しいものだ。

路地の少し奥にその旅館を見つけた。ここもまだその古き良さを残していた。

広い間口に黒く磨かれた板の間が夕陽の残り火を照り返しながら私を迎えてくれた。

奥から和服姿の年配の女将が出迎えてくれる。その自然体の出迎えに、今日歩いた疲れと休めるという安堵感が、ジワーと私の身体を支配していく。

朝5時半に眠りの床から外を見る。

既に、陽の光の中、街は活動を初めているようだ。窓の外からは、その意気が

聞こえてくる。

1階の食堂で、モーニングをとる。身体に疲労はあるが、気持ちよい朝の

光の中では、それも感じない。1つ前のテーブルでは、サラリーマンであろうか新聞を睨みつけながら最後の一切れを食べている。他には、誰もいない。

静かな空気と白い朝日がラウンジ全体を覆い、今日への私への励ましをしているようでもある。

外は、既に夏の日差し、やや弱いとは言え、まだその暑さに馴染んでいない顔を直撃してくる。分厚いコンクリートに固められた高速道路沿いの8号線を更に北に向かう。畑の中を疾走する2両電車。えちぜん線が東にその小さな車体を走らせていく。

30代半ば、川崎を去り、光のシステムの拡販グループにいた。そのとき、

光のシステムが導入可能か、の現地調査に来たのが、九頭竜ダムであった。

荒涼たる堤に立ち、下を見れば、薄緑の水面が、鏡の面の如く光ながら

我を見ている。初めての現場での仕事であり、初めての北陸であった。

既に初冬の日和となり、しぐれまでの日差しも弱かった。一緒に来た営業員

と暫くのその陽の中で、北陸の空気を味わった。

 

昨日は寄れなかったが、ホテルから僅かの所に、猫寺で有名な御誕生寺がある。

ここの板橋興宗住職は、曹洞宗の元管長だった方で、曹洞宗公認の修行場

「専門僧堂」でもあるので、全国から集まった約30名のお坊さんが、

日々の修行と、猫のお世話をしている。県道を歩いていくと石柱に「御誕生寺」

と書かれた門があり、既に中から人々の声が聞こえてきた。

本堂の広い広場には、まさに数十匹の猫達が思い想いの姿で人々の相手を

している。我が家にも5人の猫がいるが60匹ともなるとチョット感じが違う。

猫に占拠されているといったほうが合う風情である。あるものはノンビリと

日向ぼっこに現をぬかし、別のものは、悠然と人々の間を歩き回っている。

やがて、猫が急に小屋のほうに向かっていく。朝の食事の様である。若い

お坊さんが1袋抱えながら、半円筒の筒にドライフードを入れている。

その食事風景は圧巻そのもの、我が家の5人の食事からは想像できない迫力がある。

御誕生寺で猫を飼うことになったきっかけとなったのが、十数年前に板橋興宗住職がお寺の境内に捨てられた猫を保護したことだそう。

それ以来、捨てられた猫を引き取っているうちに次々と増えて、いつの間にか

猫寺となっていたとか。

最近は、その費用負担もあり、引き取りはしていないとのお坊さんの話。

しかし、毎週の様に猫を境内に捨ててしまう人がいるようで、ここでも、人間のエゴを見せ付けられた。可愛い子猫の時は、「可愛い、可愛い」と飼っているのに大きくなったらものを捨てるように捨てに来る。

何とも切ない気持になったが、スリスリと寄ってくる猫を見ていると、その気持は薄らいだ。我が家の5人は今頃どうしているのだろうか。息子どもが世話をすることになっているが、一抹の不安が横切る。

携帯で家に電話をしてみる事にした。

3、4回の呼び出し音の後、息子が出た。猫はのんびりと過ごしている、と何時もの無愛想な話し振りである。丁度下の息子と私の近況を確認しようとしていたと言う。お転婆なボーダーコリー犬のルナは相も変わらず毎日飛び跳ねているそうだ。妻とは、我が家の孫娘とよく言って笑ったものであるが、彼女も既に6歳の元気盛りの娘なのだ。

時は過ぎ行くままに、人や猫、そして犬も変えていくのであろうか。そういえば、数ヶ月前に珍しく3人の息子が顔を揃えた。会社経営の長男を始めとして、それぞれの生活を無事過ごしているだけでほっとするものだ。もっとも、誰もが40前後のオッサンであることには、変わりがない。

まあ、忘れ去られていない事が慰めでもあり、元気をもらったようだ。

最後の「何かあったら、電話して」の声を心に響かせながら、初夏の暑さをたっぷり含んだ道路を更に進んでいく。

永平寺の標識が出ている。緩やかに流れる川を遡れば、そこには、永平寺の

大きな伽藍があるはず。

永平寺は、道元が1244年に開いた曹洞宗の大本山で、現在もなお多くの門徒

が修行に訪れる禅のメッカ。福井県の山間の急な傾斜の中にあえて寺を建てたのは世俗を離れて深山に入り、自然と共に生きるという仏教の伝統的な考え方に基づいてのこと。確かに、もう一方では「入廛垂手(にってんすいしゅ)」という市井の中に入っていって衆生済度をするという考え方はあるが、禅の厳しい修業を行うには山中にあった方がよいのかもしれない。

道元が開いた曹洞宗は旧仏教と妥協せず、国家権力とも結びつくことはなく、

その真摯な姿勢がまさに永平寺に象徴されている。

しかし、道元の言う「只管打坐」をこの俗世界にまみれた私にとって、中々に

分からない。

「正法眼蔵随聞記」には、

「道元禅師が説かれた。仏道修行で最も重要なものは、坐禅が第1である。

学問が全くない愚かで鈍根のものであっても、坐禅修行の成果は聡明な人

よりもよく現われる。だから、学びとは只管打坐して、他の行いに関わるべき

ではない。」と言っている。

また、「宝慶記」には、

「参禅は身心脱落なり、、、祇管に打坐するのみなり」とあるが、道元は

如浄に身心脱落とはなにか、と問うている。これに対して、如浄はそれは坐禅であり、只管に打坐する時、見る、などの五感の対象への執著などを離れるからであると答える。対象にかかわり、これに執著することが、自己と世界の真実の姿を見る眼から覆い隠す。坐禅に打ち込むとき、このあり方から脱して、ありのままの世界をありのままに見ることが成就するであろう」とある。

正法眼蔵全95巻の「弁道話」には、

「修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち、外道の見なり。

仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心

の弁道すなわち本証の全体なり」

「修証これ一等なり」とは、修(修行)と証(証悟)とは一つ同じもの。

「本証」とは、本来の悟り。修行のただ中がそのまま本来の悟りそのものと

言っている。

この根底にあるのは、「脚下を照顧せよ」として、普段の生活まで自身の

足元をみることを勧める。単に坐禅する行為のみ留まらず、「行、住、

坐、臥」の全ての日常行為が仏道に通じると言っている。

わからない、しかしこれへの願望は昔からある。坐禅経験も2回ほどしたが、

単なる体験で終わっている。一度は入社して穴倉的な開発の日々に疑問を

抱き、埼玉にあった坐禅の専門道場で、2週間ほど、そして40歳、三島での4日ほどの経験である。

既に永平寺には、2回ほど訪れてはいるが、単なる物見遊山程度の訪問であったが、たまたま横を通り過ぎた若い雲水の笠の下に見えた鋭い眼差しとやや鋭利に見えた頬の様、全身から出てくる弛緩なき立ち姿は忘れ得ないものであった。もう一度は、坐禅をしたいとの思いはあるものの、今回は、吉崎御坊跡を是非、訪れるため8号線を歩きはじめる。尤も、今の緩みきった体と心では、無理なのが眼に見える様でもある。ドン・キホーテ、ニトリ、オートバックス

など良く聞く名前の看板が立ち並んでいる。しかし、この雑多感はどうであろうか。歩いている自分が何か矮小化され、小さく感じられる。

一挙に、疲れが身体の彼方此方から這い出してくるようだ。この情景の中に、

国府時代の面影はどこにも感じられない。均一化した日本の地方での縮退した

風景、これが今の日本の姿なのであろうか。

ここからローカル線で田園風景も味わいたいと思い、少し主旨を変えて福井鉄道の福武線に乗る事にした。

越前武生駅は3階建てのこじんまりとした駅である。

ここから、鯖江、坂井、福井と街中から田園の中をゆっくりと三国駅まで

途中えちぜん線に乗り換えて向かう1時間弱のローカル線の旅となった。

鯖江の駅を通りながら、和邇は昔、NHKで見た映像を思い出した。

大きな石の塔があり、そこには「忠霊塔」とある。その下で、ひたすら周辺の

五月や紫陽花の花などの刈り取り、雑草の取り除きをしている老人がいる。

緑の広がりの中に、石造りの四角な箱型の台とその上に聳え立つ「忠霊塔」の

3文字が刻まれた石塔、周辺に鳴り響く蝉の声、それ以外はただ、草刈る音が

静かにその刃先のすれあう音ともに、響くのみ。かなり薄くなった白髪頭に

手ぬぐいを巻きつけ、無精ひげの残っている頬を何筋もの汗が白い水跡を

残しながら首を伝わり、褐色の作業服の中に消えていく。中腰の身体は

ややつらそうに左右に揺れている。しかし、その眼は力を持ち、ひたすら

眼前の草木に向けられている。

ここには、福井にいた陸軍の戦死者が骨壷として、25000余り祀ってある。

彼は此処の掃除や草木の刈り取りを50年以上ほぼ毎日続けて来たと言う。

その映像を見ながら、この単純作業を50年以上を続けて来たと言うその

意志の強さと何のために、誰のために、という、和邇の判断基準では、無駄と

思われることへの執念に驚かされた。彼を突き動かしている心の底にあるあるもの何かは、映像では語られなかったが、自分にはとても出来ない、と思った。

そして、今その塔のある街の近くを、自分の原点を確認したいがために、歩んでいる。

これも無駄な行為では、との疑問が絶えず彼をして留まり続けて入る。

滋賀でも、近くは京阪大津線やしがらきに向かう草津線などがあるが、乗る人も多くなくのんびりとした風情で、緑の絨毯と川のせせらぎの中、しばしの休息を取れるのも、中々によい。ただ、廃線になったローカル線も少なくはない。

湖西の場合も、JR湖西線が開通するまでは江若鉄道と言う線が浜大津から

近江舞子まで走っていた。琵琶湖の横をノンビリと走る姿は湖西の持つ自然と上手くマッチし、一度は乗ってみたいと思うような気がする。近所の古老の方々と話をすると、遠くを見つめながらその笑顔は、一瞬の若さを取り戻す様でもある。

多分、どこのローカル線と呼ばれていた鉄道はその様な想いを詰め込んで

走っていたのであろう。四季にあわせた情景は、若い人々に故郷の匂いと手触りを焼き付けていたに違いない。電車は概ね車体の下は青か青のストライプで1両か2両編成である。出発して、直ぐの北府駅は屋根瓦のある古びた駅舎であったが、暫らくは、小さなビルとコンクリートの固まりのような高速道路、全くの無機質な街をなにかに追い立てられるように、走っていく。福井サンドームやスポーツ公園駅、更には、日野川に沿って鯖江大橋も見える。福井駅からはえちぜん鉄道三国港駅行きに乗り換えるが、ここで30分近く待たされる。これを反対に行けば、永平寺から九頭龍と、40年ほど前の若き自分の世界に戻るのだろうか。

吹き付ける翠色の風を受け、はるか遠くにかすんだ様に見える白山連山をみて、

時間感覚を古代風にかえれば、結構楽しい。えちぜん鉄道の車両はジュラルミン製の銀色の車体が中々にスマートであり、記念写真を1枚撮る。オッサンがピース姿になるのが様になるのかは大いに疑問だが。車両には、2人ほどの老人がゆったりとした風情で乗っていたが、潮の匂いが身体を包み始め、三国駅に降り立った時には私一人の乗客となっていた。

遠くにかすんで日本海が見える。降りる人もなくポツネンとホームにいる私。

どこか映画の一シーンになるなあ、と勝手に思い、かってに駅を出る。

0 件のコメント:

コメントを投稿