2016年2月14日日曜日

山中温泉で休息の時


お陰で、大分早く足も動く。これは功罪、どちらになるのか、分からないが。

左に日本海が白い波線を描きながら音もなく動いている。少し丘陵に足を踏み入れるとそこには広い芝生が緩やかな起伏を持って、更に先の次のホールに続いている。

昔は、良く行ったゴルフではあるが、外から見ると、何か侘しさだけが、

胸を去来する。楽しさよりも、上手く上がれなかった時の悔しさだけが、

思い浮かぶ。

大聖寺川を下るにつれ海の匂いが強くなり、幾つかのうらさびしい砂洲

を露わにしている。川水は確実に海へ近づき、潮に飲み込まれるようだが、

水面はますます沈静に何の兆しも浮かべていなかった。相変わらず静かな

微笑をたたえる観音菩薩の様でもある。

河口は意外に狭い。そこで溶け合い、漠然たる境を作り合っている海は、

青く光る空に浮かぶ薄雲の堆積に紛れ入り、不明瞭に横たわっているだけである。目的の地を見つけるには、まばらに地に張り付くような姿勢の家々や野原や田畑を渡ってくる微風の中で、なおしばらく歩かなければならなかった。

その風が春の日本海をくまなく描いていた。

冬の厳しい風が、縮むように点在する家や野や畑の上に駆け巡る海の

激しさを知る彼にとっても、春のそれは、過去の重苦しい記憶を更に深く

思い起こさせた。それはいわばこの地方の冬を覆っている空気感の違い

であり、命令的な支配的な見えざる海とは違う情景であった。

河口のむこうに幾重にも畳まれていた波が、徐々に灰色の海面のひろがり

を示していた冬の季節、彼にはその記憶のほうがはるかに強かった。

それは正しく荒れる日本海の海だった。私のあらゆる不幸と暗い記憶の源泉、

私のあらゆる醜さと弱さの源泉だった。海は荒れていた。波は次々とひまなく

押し寄せ、今来る波と次の波との間に、なめらかな灰色の深淵をのぞかせた。

暗い沖の空に累々と重なる雲は、重たさと繊細さを併せていた。

時には、境界のない重たい雲の累積が、この上もなく軽やかな冷たい羽毛

のような姿をみせ、その中央にあるかなきかのほの青い空を囲んでいたりした。

鉛色の海はまた、深緑色の岬の山々を控えていた。全てのものに動揺と

不動と、たえず動いている暗い力と、鉱物のように凝結した感じとがあった。

ふと想いを今に戻せば、海からの風は少し冷たいものの、春の陽光の下では

心地よさが優った。そして、小山を少し歩いた先に静かな水面を見せる

湖が現れた。そのさざめきの光の中に吉崎御坊の台地があった。

突然、吉崎御坊跡が見えた。1年ほど前に入院した時、何気なく手に取った蓮如について紹介した記事を見てその生涯変遷の凄まじさと行動力の強さに感じ入った。浄土真宗の宗主でありながら幾度となく追われるが、その行動の大きさからついには日本最大の宗派を築いたのである。

私は蓮如が好きである。法然、親鸞、日蓮など宗教の世界では名前の売れた人々

とは違いからだ。彼は組織拡大の拡大家だ。そして、人間臭さが非常に残る

人でもある。

その辺りは、山折哲雄さんの「人間蓮如」に詳しく書かれている。

その彼が北陸での拠点としたのが、この吉崎御坊であった。当時の面影は

残っていないとは思ったが、是非立ち寄ってみたかった場所である。

さらに、この御坊こそこの北陸に浄土真宗を広めるための橋頭堡でもあり、

新しい時代を作るための種子でもあった。ここから、白山信仰への対抗、

地方豪族との闘い、高田門徒の駆逐、親鸞の教えを曲解し自身の繁栄に終始

する貴族的な大坊主衆の排斥が始まるのだ。更には、一向一揆としてこの地に

「百姓の持ちたる国」を創り出した。今の何と無くこの伸びきった時代とは

対極にある緊張と希望のある社会を現出したエネルギーは素晴らしい。

信仰が、宗教が新しい社会を創り出した時代であった。

既に、関係する建物は何もないとは知っていたが、あらためてその場に

立つと時の長さを感じる。今は何もないこの広場や記念館の周りには、

多くの家が建ち、自身の浄土を求めてきた人々の怨嗟とも思えるエネルギー

が満ちていたのであろう。行きかう人々の熱気が今も我が身を覆っていく様でもある。

吉崎は日本海を目の前にした北潟湖に突き出した岬のような地形で、屹立する

台地になっている。対岸には貸間の森があり、そこから向こうはもう石川県である。文明三年、蓮如はこの台地に吉崎御坊と呼ばれる寺を建てた。

15世紀の後半、吉崎に幻の宗教都市が忽然と賭して、現われ、そして消え失せる。

その跡がいまは、吉崎御坊跡として史跡に指定されているのである。今見る吉崎は、きれいに整備された公園のようになっている。春には、松の木立ちの間の八重桜が淡いピンクの花を咲かせる。花の季節を過ぎたいまは、木々の新緑がまぶしい。そして、ひっそりと静まり返っている。

私が立つのもこの同じ時期である。

だが、蓮如がいたころの吉崎はそうではなかった。まるでディズニーランドのように、大勢の人が全国からここに集まってきたのである。かっての吉崎には、大変な宗教的熱狂が渦巻いていた。

吉崎御坊の周りには家々が立ち並び、1つの街を造っていた。そして、何千、何万という人々が押し寄せてきた。あたかもイスラムの人々がメッカ巡礼旅立つように、吉崎をめざして各地から念仏の信者が集まってきたのだった。

吉崎は古来から陸と海の交通の拠点であった。

特に、海、湖、川を利用する水上交通が盛んな場所である。

湖から見れば、遠くに白山の山並がかすかに見え、それを背にして振り返ると

すぐ正面が日本海である。この2つにはさまれて、さらに三方を北潟湖の湖水に囲まれているこの台地は、まさに天然の要害の地と言ってよい。

さらに、吉崎御坊跡の横に不思議な場所があった。これまで、一般市民もあまり足を踏み入れたことがなかい一角である。北陸のイメージとは違って、南方のジャングルのような木々が密生している。

かってこの一帯は吉崎御坊へお参りに来た人々の宿が、2百以上も軒を連ねて

いたという。そうした宿は多屋と呼ばれていた。その敷地の広さは約9千坪も

あったらしい。当時、日本各地の真宗寺院からこの吉崎へ門徒たちがやってきた。多屋はそうした今で言うツアーの人たちを泊める目的で作られた大きな宿泊施設だったのである。

そもそも、蓮如と言う人は、その身からは「教えを伝える人」と言う姿は想像

できない。遊戯や遊芸が好きだったそうで、その様な人々を人たちを手厚く

保護し、役者や能のうたい手などを連れて歩いたほどだった。そのため、

此処には当然、演劇と言うものも発生し、たくさんの人が各地から集まることで、物々交換をする市場、一種のバザールのようなものもできた。

突然、この陰鬱な北国の一角に、そういう賑わいが出現したのである。

この場所には見渡す限り多屋が立ち並び、各地の方言が入り乱れ、活気に満ち

あふれていた。集まってきた人々の心は一つ。吉崎御坊にお参りして、浄土への往生を願うことだった。

吉崎は、人々にとってはまさしく地上に出現した幻の都であり、ドリームランドのようなものだったのであろう。

今の日本では考えられない熱気がこの町全体を覆っていた。

吉崎御坊は、「蓮如がつくりだした幻の宗教都市」だが、その遺構だけが

現存して「蓮如上人記念館」となっている。まさに幻の都市であったが、その一端はこの記念館で味わえた。

また、この吉崎御坊跡のシンボルは、「誰も撤去できなかった蓮如像」にあると

言われる。ふつう銅像は、威風堂々としていて近寄りがたいものであること

が多いものですが、この像は草鞋履きで菅笠を手にした旅姿でとても親しみやすいものです。吉崎の人々が「蓮如さん、蓮如さん」と親しみ深く呼びかける様子がここにも表れているのではないのか。

また、戦時中、誰もが恐れる軍部から、門徒たちが金目のものは撤去せよと命じられたところ、「蓮如さんは人殺しを望まない」と誰もが応じず、やむをえず軍部自らが撤去しようと作業に取り掛かったところ、足場が崩れて下にいた兵隊たちもみな怪我をしたという奇怪な現象が生じたと伝えられている。その伝説の真偽はともあれ、鬼の軍部の要求にもがんとして動かなかった門徒たちの信仰の篤さに驚かされる。

その想いが今でも蓮如忌として数百年続いている。我々の世代を含め物的な繁栄とともに、信仰は形だけになりつつあるが、その底流にはまだその残焼が

くすぶっている。この地にいるとそんな気がしてくる。

私的には、宗教と言う1つの力で、大きな町を作り上げたその力の強さに大いに感じるところがある。金とモノが中心の経済のみ優先してきた日本の中で、このような形で、街を形成している処は、ほとんどない。また、宗教がコアとなり、1つの街を創りだすことは、ほとんど考えられない。

これも、我々が考えるべき課題かもしれないが、その解は、おそらく出てこないのであろう。

湖の畔に立つこの御坊も、往時は、ここから日本海に出て、大阪や京都へ向かったのであろう。僅かな潮の香りと静かな湖面は、その時の人々の熱気と蓮如の説く、浄土真宗が深く人々を惹きつけたのたのかもしれない。

伽藍の周りには、家々が立ち並び、1つの街として成長を遂げた。

胸を去来する寂しさは、時代を経て、この眼で見る栄枯盛衰の残照なのであろうか、納得できないまま、御坊に佇む。1つの街の死がここに残照として残っている。

 

父の死は、突然であった。91歳とはいえ、元気に一人住まいのマンションで

私たちの家の近くに住んでいたのだが、事故死となった。私にとって、父は

反面教師でもある。突然の解雇とその後始めた事業の失敗が重なり、全くの

自信を失った人となった。何事にも、弱気な態度と屈折した笑いを持つ寂しい日々が、その後30年ほど続いていた。無為な人生、本人がよく言っていた言葉である。

しかし、京都に一緒に住むようになってからは、ただの好々爺の日々を過ごした。今でも、はっきりと覚えている。ある朝、警察からの突然の電話、「お宅の

お父さんが亡くなりました」との事務的な連絡であった。何か違う世界での話の様な気持ちであった。「ただ、はあそうですか」と馬鹿みたいな返事をしていた。心臓病でなくなった母親の場合はまだ小学1年生であったこともあり、その死に顔と写真を持たされてお墓に言った時の記憶しかない。永らく入院していた母とは、母親の温もりを感じたことは少なかった。しかし、父親の場合は、病院の安置所で綺麗に死化粧をされた顔は、静かな微笑を湛えていた。安置所の暗く淀んだ空気の中で、1条の光を浴びたその死に顔は、今でもはっきりと浮かび上がってくる。死を一番身近に感じた瞬間でもあった。

その1週間前に会ったときの元気な姿から一変の姿であった。

人の無常をまともに受けた瞬間でもある。

同時に、自分の見切りは自分でつける、という考えが心に住み着いた時でもある。

蓮如の強さと激しさを現すものとして、蓮如の書いた「白骨の御文」と言うのがある。

その大意は、

「人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。

それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。

それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。

そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を深刻に受け止め、阿弥陀仏から他力の信心を頂いて、念仏申すべきであります。」

 

詳細は、

「それ、

人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、

おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)

まぼろしのごとく なる一期(いちご)なり。

されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。

一生すぎやすし。

いまにいたりて たれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。

我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、

おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露(つゆ)よりもしげしといえり。

されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、 

ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)のよそおいを うしないぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。

あわれというも中々(なかなか)おろかなり。

されば、人間のはかなき事は、老少不定(ふじょう)のさかいなれば、

たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)を心にかけて、

阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまいらせて、

念仏もうすべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。」

以下にそれの現代語訳を記すが、我々の持つ無常観を明確に指し示している。

「さて、

私たち人間の無常な生涯をよくよく思いめぐらしてみますと、

この世に生まれ、育ち、命尽きるまで、

まるで幻のような一生であります。

この世に生を受けて一万歳生きた人がいるとは、

いまだかつて聞いたことがありません。

一生はあっという間に過ぎてゆくものです。

いったい誰が、今の私の姿のままで百年の命を保つことができましょうか。

私が先に逝くかもしれないし、他の誰かが先に逝くかもしれません。

今日終わる命なのか、それとも明日なのか、そういうことも分かりません。

大切な人が先に逝ってしまう日も来れば、私が先に旅立つ日も来ます。

草花の雫や葉先の露が消えてなくなるよりも、それ以上に人間の生涯は儚いものです。

ということは、

朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです。

今、無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、呼吸は永遠に途絶えてしまいます。

血の通った顔もはかなく色あせ、桃や李(すもも)のような瑞々(みずみず)しい美しさも失われてしまいます。

無常の風が吹いたその時、家族や親族が集まり 歎き悲しんでも、

元気な姿を再び見せることはありません。

いつまでも悲しんではいられないと、火葬し、夜中、火も燃え尽き、煙が立ち昇る頃には、後にはただ白骨が残るばかりであります。

悲しいというだけでは言い尽くせません。

このような人間の厳粛な事実は、老いも若いも関係ありません。

誰も避けては通れません。

だからこそ、「あなたはその事実を受け止め、どのように人生を歩んで

いくのですか」と、亡き人から問われているのです。

親鸞聖人は阿弥陀如来を頼りとしなさいと教えてくださいました。

阿弥陀如来は、無常なる人間を(人間が無常であるからこそ)救いたいと

願われました。

その願いに包まれて、私は生きています。

そのことを想うとき、自然と「南無阿弥陀仏」と念仏の声が出ます。

亡き人は、阿弥陀如来の慈悲の心を、この私に示してくださいました。

私を生かす教えに出会えたこと、有り難いことです。大切にいただきます。」

小さい頃の苦労と母親の早い死からか、昔から私の底には「無常」という小悪魔が住み着いていた。さらに、父の死や自分の人生流転の結果から「他力本願」も、己の想いの1つであった。蓮如も「無常観」と「他力」の教えを説いている。蓮如の人生流転と比べれば些細なものかもしれないが、蓮如と言う人には

惹かれるものがある。本来の「他力」は、人任せにすることではない。

例えば、密教では、「大日如来の説く大きな教えの中で、自身が努力すれば、

仏になる(本願となる)」事である。そして、個人的には、

「我々には、個人として、どうにもならない大きな流れがあるものの、日々の自分を見失わずに努力していれば、最終的に自分の想いを達成できる(本願する)」との想いがある。

ただし、自身の死は自分で決着を付けたいと言う気持には、変わりはない。

そんな想いを巡らしながら、ゆっくりと背に迫る潮騒の音に見送られ、

御坊を去る。

北陸は、滋賀から3時間弱で来られるので、良く夫婦で、あわら、山代、山中

温泉などに来た。今回は、忍従の旅ではあるが、少し贅沢をして、山中温泉

に泊まることとした。御坊から北へ向かい、大きな交差点で、右を川沿いに行く。やや小ぶりの桜の木々が、出迎えてくれている様だ。

まだ、三日目ではあるが、ナップザックが少しづつ肩を攻めてくる。足も、

少しその歩幅を狭くしているのか、数百M先にある、多分温泉街への標識

が中々大きくならない。

両脇に土産屋の並ぶ通りを過ぎる。お店番なのだろうか店の前にいた白髪の

おばあさんがこちらを見て、にっこり。その笑った顔の皺の多さと欠けた前歯が一層の優しさを投げかけてくるようだ。店奥の扇風機の風が白く伸びた後れ毛をゆらりゆらりと浮遊させている。白と黒の縞の前掛けが西日を浴びて紅く光り、薄地の前絞りの服が生気を得たようにおばあさんを包んでいた。

その笑顔にチョット引かれて、「熱いね、、、、、」「お客さん、歩いてきたのかね?」「そう!!」

夕陽がおばあさんと私の影を長く遠くまで、投げている。

川のせせらぎが遠くから聞こえてくる。

夕闇も間もなく、ここに降り立ち、静けさを更に深くしていくのだろ。

山中温泉の共同浴場には、近くの人が、そぞろに入って行く。既に、

ここは、温泉街から生活の場に移行している様だ。

浴場の前のベンチには、3人ほどの年寄りが、一人はタバコを吸い、

2人は何か楽しそうに話しながら涼んでいる。

これは、木村伊兵衛の世界だな、ふと思う。彼の市井の人々を切り出した

モノクロの映像が目の前にある。深い皺と鋭く光る顔に数10年の苦労を

刻んだ指が横からぐいと伸びている。大きく影を落とした電柱の横で

どこか遠くを見ている若い女性、薄い唇に形のよい鼻、その艶やかな肌、

モノクロの写真の中に踊っていたものである。

結婚するまで、写真が好きで、よく出かけた。色をそぎ落とし、

その情感のみが醸し出されるモノクロの世界が気に入っていた。

しかし、人物を、その素直な表情を、印画紙に焼き付けるのは

中々に難しい。その人の心の中に入らないと、本当の姿、表情を

捕まえることが出来ない。そんな苦労や葛藤も、結婚とともに、

忘れ去られていった。

少し時間があるので、近くのこおろぎ橋から川沿いをぶらぶら、

深い緑の木々が白く流れる川に頭を下げる様に立ち並んでいる。

陽はすでに、その力を失いつつあるようだが、道々の草花は、

まだその草いきれを残している様だ。川のせせらぎが今日の疲れを癒してくれるかの様に川面の煌めきとそれを覆い隠すように伸びている木々の深い

緑が私を包んでいるようだ。

少し店の立ち並ぶこの通りは、電柱が地下に埋められているせいか、

その空間の広さと空のややピンクがかった雲が普段より、大きく見える。

あの醜く不細工な電柱が街の景観を損なっているのだが、いまだ

多くの街では、当たり前の景色となって、その存在を謳歌している。

ここにも、経済性偏重の証が活きている様だ。

暫くブラブラして、良く行く木工を売っているお店と漆器を扱っている店に

立ち寄る。木工の店の小物は、結構作りもしっかりしていて、気に入っているが、今回は荷物となるので、見るだけ、店からすれば、ただの冷やかしか。

さらに、通りを先に行くと様々な山中塗りの漆器を売っている店を訪ねる。

最近は、合成樹脂がベースの山中漆器が多くなっているようだが、昔からの

天然木を素材にした漆器はその手触り感が、何ゆえか違う。お香入れの丸みのあるしっとりした風情は見ていても飽きない。さかのぼれば、この山並みに育った木々の良さを活かしながら、様々な生活用品に形を整えて行った木地師たちの造形の深さが深さがベースにあるはずだ。2人で、そんな事を言いながら、

何個か買った日の有り様が、一瞬頭を過ぎる。

どこからか、山中の民謡が聞こえてくる。

「ハーアーア 忘れしゃんすな 山中道を

東ゃ松山 西ゃ薬師

ハーアーア 山が高こうて 山中見えぬ

山中恋しや 山憎し」

山中座の広場には、既に人影なし。柳は、少し揺れている。

立ち上る湯気に、一人で来ている事を感じる。

川のせせらぎに加えて、木々の間を縫うように現れた半月の月が

寂しげに笑っている。

20代半ばからであろうか、写真に結構のめりこんだ。カメラも給料がまだ

少なかったが、6×7版のやや大きめのカメラを始め4台ほど買っていた。

プリントも自分でやった。暗室の薄暗い中で、少しづつ自分の撮った映像が

浮かび上がってくるのに、感動したものである。また、その人の内面や想いを

的確に捉えることの難しさ、人間の奥深さを知らせてくれたのも、写真であった。

今は、カラーが当たり前になり、モノクロ写真そのものがあることすら知らない

人がほとんどであろう。しかし、カラーと言うある意味人間視覚的には誤魔かし

が入る写真よりもモノクロによる被写体そのものを切り出す映像の方が私は

好きだった。実は、我奥さんとの出会いはこの写真好きが縁でもある。毎年写真撮りに

京都へ行っていたのだが、そのときは珍しく友達が一緒であった。そして、

京都に知り合いの女の子がいるとの話から、写真を撮ったのがキッカケであった。

あのときの可憐さは既に遠く彼方に消え、今はいい加減な亭主を充てにせず、

息子3人を育てたと言う自信に満ちた女傑となった。

しかし、私の写真への興味が次第に萎んでいった。私もまた、ただの仕事だけ

の人間となっていった。歳月とは恐い、また残酷でもある。

案内所(山中座)で今夜泊まれる宿屋探し、幸いにも、近くの旅館を教えてもらう。

旅館は小さいが、小奇麗な部屋とチョット広めのお風呂に満足。

ここで、1人で泊まるのは、初めてでもあり、予約なしで来るのも、

初めてである。いつも奥さんと一緒。まあ、一応、仲の良い夫婦

だったのかも知れない。口げんかはよくしたものであるが、それさえも今では、

良き思い出なのかもしれない。

「あなたの金銭感覚は全くダメなんだからもう少し考えてお金を使って」

「なんで直ぐに大声を出すの、その性格が息子にも出てるわ」

「その自分勝手な言い方は止めて、もう少し私のことも考えてよ」

「私も良く離婚もせずにここまで来たわ、辛抱様様ね」

言葉は違えども、似たようなパターンが何10年と続いた。

実は、この周辺、幾つかの有名温泉があるのだが、この山中温泉には、

奥さんとの強い思い出がある。

大分前の秋に、このあるホテルに泊まった折りに、奥さんが、急な腹痛

を起こし、2泊を切り上げ、直ぐにその夜、帰ることにしたのだが、

ホテルの支配人曰く、腹痛に良く効くやり方があるとのことで、その晩、

煎じ薬とある源泉水を飲むことで、次第に痛みは治まり、無事、

二晩をゆっくりと過ごしたことがあった。

「山中や 菊は手折らぬ 湯の匂ひ」──芭蕉が旅の途中に逗留して

山中温泉を詠んだ句(奥の細道)。不老長寿の霊薬である菊を手折る

までもなく、湯の匂いは菊の香に劣らないし、浴すれば菊に負けない

効能がある。

ホテルには、あまり泊り客はいないようで、ゆったりとした空気が漂っている。

少し遅い食事をしていると、坊主頭に丸い眼鏡をかけ、どこか鶴瓶に似た男性

が近寄ってきた。肌けた浴衣から太目の体が持て余し気味にのぞいている。

少し酔っているようだが、愛嬌のある眼差しをしている。

「お宅は何処からですか?」

「滋賀から。ノンビリと歩きながらでもと思ってここまできました」

「私も、昨年退職しましてね。妻はもういませんので、一人ノンビリの旅ですわ」

彼は、福井の人間で、自分探しをしている。たまたま、男一人の私を見て、

酒の相手にと思ったとのこと。

「福井はいいですよ。ノンビリして、食べ物が美味い。若いのは、東京とか

大阪に出て行くけど、あの気持は分からん。滋賀は隣ですけどあまり知りません」

「滋賀も結構ノンビリで、琵琶湖の風情は最高ですよ」

酒を飲むうち、お互い60年ほどの人生の脈絡をその酔いの中で、しゃべった。

私も、珍しく飲み、自身の想いと過去のわだかまりを喋ったようである。

いつ部屋に戻り、寝たのか定かではない。

何か自身の身体の中にあるわだかまりを吐き出した気分であった。

翌朝、好きな朝風呂に入って、食事。海苔と焼き魚、味噌汁、どうしてこう

日本の朝食は、どこへ行っても、変わらないの、の疑問を持ちながら、

女中さんに、

「今日は、お天気どうですか?」

「朝はいい様ですけど、昼過ぎはちょっと分かりませんね。いずれにしろ、この辺は

天気が変わりやすいしね」にこりともせず、行ってしまった。少し疲れた顔が後に残っ

た。

少し身体がだるい。昨日までの疲れが、少しづつわが身に寄せてくるようだ。

ホテルのロビーに昨夜の彼がいた。

私を待っていたと言う。昨晩の会話の中で、どうも、一緒に歩いて行こうと

言うことになったのだと言う。記憶がなかった。

しかし、約束は約束であり、2人連れも悪くないかも、と思いホテルを出る。

外は、薄い霧が立ち込めていた。

朝のしじまの中を、川の対面にある公園を歩き、那谷寺に向かうことにした。

黒々とした潅木と草露に覆われた道を進みながら、この世には、自分一人

しかいないのでは、と不思議な感覚に陥る。

ゴルフ場のこざっぱりと刈られたグリーンの上を霧の妖精たちが、静かに

遊んでいる。その先には、鉄骨の網が、ここは、俺の領地だ、と叫ぶが如く

立ち並んで、こちらを見下ろしている。

現役時代には、よくゴルフに出かけたが、その多くは、接待ゴルフと称する

もの。あまり上手くないこともあり、この広い場所を取り、無駄な時間を

過ごすための空間には、興味がない。

やがて、空の蒼さが一段と高くなり、汗をかいたせいか、身体のだるさは、

なくなり、眼の届く限りの田畑も、野原も、家々の生垣が、庭も、新しい

命がはじけ始めている様である。

連れの彼は太田さんと言う。歩き始めると意外と無口であることが分かった。

彼も、この朝のしじまの中を黙々と歩いているが、二日酔いなのか、少し

苦しそうでもある。

 

那谷寺(なたでら)は、温泉コースの一つでもあり、この近くに止まる時は

いつかは行かなくてはと思っていたが、まだ、行ってなかった。

しかし、来て見ると、自然の岩山や岩窟と一体となっており、垂直に切り立った

岸壁に階段が掘られ、その境内の「奇岩遊仙境」に圧倒される。

かつて修験道の行者が修行したであろう峻厳な崖にただただ、感嘆するのみ。

おくの細道にも、この周辺の記述がある。

「山中の温泉に行くほど、白根が岳跡に見なして歩む。左の山際に観音堂あり。

花山の法皇、三十三ヶ所の巡礼遂げさせたまいて後、大慈大悲の像を安置

したまいて、那谷と名づけたまいとなり、那智、谷汲の二字をわかちはべりし

とぞ。奇石さまざまに、古松植え並べて萱葺の小堂、岩の上に造り掛けて殊勝の

土地也。

石山の石より白し秋の風

温泉に浴す。その効有馬につぐという。

山中や菊はたをらぬ湯の匂い  」。

先ほどまでの身体のけだるさは既に、何処かに飛んで行った。岸壁を含めた

その険しさだけでなく、目を見張るような岩の白さにも、驚きを禁じえない。

芭蕉が「石山の石より白し秋の風」と『奥の細道』で詠んだくらいに、当時

から神秘的なくらいに白い岩だったのだろう。

深い緑の木々とその木漏れ日の中で、風たちが騒ぎ始めた。

しばらく、眼を閉じて、その風たちが頬を伝わる感触を楽しむ。

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