朽木は、京都大原から途中峠を通り、花折峠に続いている。
社会の波は押し寄せてくるもの、ここを比叡山の回峰行者と比良山の
回峰行者が、この世に別れを告げる、として、その荒行により、
即身成仏をなし得ようとした様に、いまでも、その気配を感じる。
まだ、残る日本の原風景ではあるが、多くの観光客は、車と言う
道具で、忙しく道の駅により、先を急ぐのみ。
何かを忘れているのであるが、それも分からないままなのであろう。
もっとも、かく言う私も、滋賀に来た当初は、道の駅から近くの
温泉へと、直行便の如く、走り抜けて、狭い道路沿いの川の流れに、
比良山ってその深さは凄いね!と感じ、迫り来る杉の黒さとその
圧倒的な緑の群れの中の自身の小ささを感じ無い訳には、
行かなかった情景を思い出す。
何処へ、誰とでも、行っても、点と点の行動の中で、ただ
ひたすら走るのみの時代、社会の大きな流れの中で、我を知らず、
富と生活の豊かさを享受することが唯一の目標であった時代。
誰もが、それを人生と思っていた時代、懐かしさと儚さが、
頭の中で、去来する。しかし、その歩みを停める訳には、行かない。
それは、己が人生を逝くときでもあるのだから。
右の足を前に出し、左の足を前に出す。その単調さが、全てである。
あらためて、松尾芭蕉の言葉が頭を過ぎる。
松尾芭蕉の旅の哲学が野ざらしなどの旅記録にある。
旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に
基づく最も純粋な生き方であり、最も純粋なことばである詩は、
最も、純粋な生き方の中から生まれる。多くの風雅な先人たち
は、いずれその生を旅の途中に終えている。
旅は、また、松尾芭蕉にとって、自身の哲学の実践と同時に、
のれがたい宿命でもあった。
「予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い
やまず、海浜をさすらいて、、、、」とあるが、旅にとり付かれた
己の人生に対する自嘲の念でもある。
まだ、始まったばかりの私の旅は、どうなるのか。特別に旅に取り付かれているわけでもないし、逃れ難い宿命とも思っていない。歩くことが自身の
人生の1章に書き込まれれば、との想いがあるのみである。
今日は朽木での泊まりにした。和邇を出てから10時間ほど経っている。
まだ明るいものの、山の冷気が少しづつ我が身を包みつつあった。慣れない足腰はすでに悲鳴を上げている。朽木本陣の道の駅を少し戻る形になるが、天空温泉と言う宿泊と日帰りの温泉施設がある。車では良く来るが歩いてここまで来たのは初めてだ。天空温泉の少し急な道を歩くのさえ怪しい。こんな状態で横浜までいけるのだろうか。杉や楓の木々をすり抜けてくる風が心地よい。空は相変わらず蒼さを保ったままであるが、西の木立ちには少し赤みがさし始めている。横を泥を跳ね上げた農作業を終えた車が数台ゆっくりと通り過ぎて行く。一日の仕事を終えた安堵感が伝わってくる。
その曲がりくねった道を4回ほど曲がると大きなグランドとその先に2階建ての樹造りの建物が見えてきた。
フロントには若い男女が忙しそうに立ち回っていた。既に日帰りの客は帰ったが泊り客の相手に翻弄されているようだ。
部屋はベッドに机が1つのきわめてシンプルなもの、殺風景と呼ぶ方が
相応しいかもしれない。
身体は疲労困憊であったが、温泉に入るため、最後の頑張りである。もくもくと立ち込める湯気の中に暫く身を起き今日歩いた情景を呼び起こす。あのチャトの何とも言えない眼差しと煌めく琵琶湖の湖面の静けさ、時折横を抜けていく車とそのときの僅かながら起きる恐怖感、野辺で土起こしをしていた人々の
なんとも言えない微笑、その横に小さいながらもしっかり咲き始めている草花の数々がとても一日の経験とは思えないほどに一挙に押し寄せてくる。
そして、湧き上がる「一日でこんな状態で旅を続けれられるの」という疑問が
一方でざわざわと私の気持を揺らしている。
やっとの事でベッドに倒れこんだが、その後の記憶はない。朝のしじまの中から聞こえる鳥の声に揺さぶるように起こされた。足と腰の痛みは相変わらず続いていたが、久しぶりの自然の中での営みが新しいエネルギーを与えてくれた様でもある。
「まあ、いける所までいこう」とベッドを飛び起き、ロッジから2日目の一歩を踏み出した。外は今日も蒼い空と深い木々の息吹きの中で明るく輝いている様である。
古代にあっては、ひろく越(こし)と呼ばれるいまの北陸三県は畿内と独立した一勢力をなし、奈良になっても屈強の勢力がここで発生する恐れがあった。
そのために、「愛発(あちち)の関」と言う関門が設けられていた。有乳山(あちち)のあたりにあったらしいが、いまは所在が知れない。現在の地図で言えば、滋賀県高島の海津を起点としてまっすぐに北上している古街道がある。それが国境と言う村から福井県に入るのだが、その越前へ越えたあたりが山中と言う村である。そのあたりの山を有乳山といい、愛発の関と言う古関もその付近の山路を塞いで建っていたのであろう。関所は7世紀半ばごろに制度として出来た。そのなかでも、「三関」と呼ばれて、鈴鹿、不破そして愛発がもっとも
重要なものとされていた。今、私のとっている道は、それよりもう少し西よりの小浜に出る道である。愛発の関は北陸から出てくる勢力に対する関門だが、軍事的に役立ったこともあった。関を閉ざすと言うは、中央の命令である。当時の言葉で、こげんと言った。固関の文字をあてる。「こげん、こげん」と使者が叫びつつ官符を持って駅場を飛んだのであろう。やがて平安期になればこれら律令体制関所が名のみとなり、それを懐かしむ歌詠みたちの歌にだけ出てくる。福井へ出る道は三つある。関が原から出ている北国街道が正当なものであり、ここから木之本へ、余呉湖のそばをとおり、そのあと、武生、鯖江をへて
福井に至る街道があり、琵琶湖の北岸の海津から北上し、愛発越えをして、
敦賀に出る。こちらの方が、はるかに街道として古い。愛発越えは、
奈良朝のころは国家が特に重視していた官道であっただけでなく、有史
以前からあったらしいと言うことは幾つかの傍証によってその様にいえる。
国土地理院の20万ぶんの1の地図をみると、海津、敦賀間のこの街道には、
「西近江路」という名称がついている。街道の中でも、最古に属する老舗
であり、いまは、敦賀から高島へ出るルートとしてその交通量も多く、また
道路もそれほど広くないため、歩きで行くにはかなり危険が伴う。
都が京都に移った後は、若狭との関係はいよいよ密接なものとなり、
京都へ通じる街道は、「鯖の道」と呼ばれるに至った。鯖だけではない、
若狭のカレイ、ぐじ、蟹などは、いまでも京都の台所をうるおしており、
夏休みには何百万人という人々が海水浴や釣りに行く、と言った具合に
風光明媚な若狭の国は、いわば、都の裏方、もしくは楽屋の役目を果たして
いるといっても、間違ってはいない。
しぜん若狭の住人は、都の文化の影響を受けて今に至っている。幸か不幸か
いつも縁の下の力持ち的な立場であったため、都会の悪風に犯されてはいず、
自然の風景は昔のままに美しく、人間の気風もいたって穏やかである。
朽木から西北に向かうと小浜へ行く。ここは、楽浪の里としての志賀にも
縁がある。そして、三方五胡、若狭湾、その昔多くの人で賑わい、奈良や
京都にも縁が深い地域である。まだ日本の持つ良さをも持っているのであろう。
古くから、京都と「鯖街道」を通して日本海の交通の玄関口として栄え、
文化の交流も近畿地方と深まり、そのため「海のある奈良」と呼ばれる
ほどに寺院が増え、人口3万人強の小浜市に110以上の寺院がある
とのこと。ここも、電力会社の仕事では、良く泊まった場所でもある。
朽木から細い道路を、迫り来る山並に気を取られながら、そよ風に追われる
か如く、歩みを進める。昨晩の寝つけの遅さが少し影響しているのだろうか、
春の暖かさに身体がまだ馴れていないのであろうか、身体全体がやや浮き
足立っている。もうここは、小浜市に入った様でもある。
旅の2日目であるが、30キロ以上を歩いた。さすがに足は硬直しかかっている。海の見える宿に泊まる事にした。
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