そして、ある日、それは五月の明るい朝であった。
和邇は、転寝の中で、昼間椅子にその身をゆだねているとき、思った。
わが人生が日本の縮図になるような大袈裟な人生ではなかったが、老い行く自分、座して死を待つ自分、野垂れ死に行く自分、それはどれも同じ自分。
俺の人生もそんなものか、と三年が過ぎた。
そんな時、ふとめくった正法眼蔵随聞記の一文に答えがあった。
「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古人曰く、百尺竿頭かんとう如何進歩と」。この出典は、「百尺竿頭かんとうすべからくこれ歩を進むべし、十方世界これ全身」から来ている。とにかく高い竿さおの先端に立っていて、そこからさらに宙空に一歩踏む出せと言っている。ただ、その竿は断崖絶壁に突き出しており、人生とはそのようにバランスを取りながら竿の上を行くものだ、やっとここまで来たと言う想いがあるものの、もう先は行き詰まりだという状況となったとき、「すべからくこれ歩を進むべし」一歩を踏み切れと言っているのだ。そこで、踏み出したらどうなるか、落ちて行く自分も感じない、身も心も脱け落ちたような自分が無になってしまう。
そうなった時、十方世界、つまり全宇宙が逆に自分の身と一致する。あるいは、
自分が全宇宙にまで広がっていく、と言っている。
踏み切れない自分、想像するだけで竿の先の一歩にいけない自分、この雑然とした暗闇の中に座している自分。
怠惰な三年の日々であったが、別な兆しもあった。
本棚の奥にあった松尾芭蕉のおくの細道、そして定年を迎えた人間がはるか千キロの旅に出る「ハロルドフライの思いもよらない巡礼の旅」。
思わず伸ばした手の先にあった松尾芭蕉の本とその一文は、私の心の襞に何か塊のような違和感を残し続けていた。
心情を幾分か、現しているので、チョット味わいたい。
「しかも風雅におけるもの、造化にしたがいて四時を友とす。
見る所、花にあらずと言うことなし、おもう所、月にあらずと
言うことなし。像(かたち)花あらざる時は夷てきにひとし。
心(こころ)花にあらざる時は鳥獣に類す。夷てきを出、
鳥獣を離れて、造化にしたがい造化にかえれとなり。
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき
心地して、旅人と我名よばれん初しぐれ
又山茶花を宿宿にして。」
更に、その野ざらし紀行で、己の旅への意識を更に強くした。
「野ざらしを心に風の沁む身かな」“行き倒れて骨を野辺に晒す覚悟をしての旅だが、風の冷たさがこたえるこの身だなぁ”
「僧朝顔幾死返る法の松」“朝顔が何度も死と生を繰り返すように僧は入替わるが、仏法は千年生きる松のように変わらない”
「命二つの中に生きたる桜かな」“お互いに今までよく生きてきたものだ。2人の生命の証のように、満開の桜が咲き香っているよ”同郷の旧友・服部土芳と再会した時の句である。
「手にとらば消ん涙ぞ熱き秋の霜」“母の遺髪は白髪だった。手に取れば秋の霜のように熱い涙で消えてしまいそうだ”
「死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮」“死にもせずこの旅が終わろうとしている。そんな秋の夕暮れだ”」
遠く比良山の稜線が、うすピンクに染まって来る。
淡い蒼空に2,3つと鰯雲の形をした雲が、琵琶湖に向かって流れて行く。
まるで、今日からの苦行の行脚をあざ笑うが如く、足早に過ぎ去っていく。
先ほどから目覚めていたが、中々ベッドから抜け出せずにいた。
少し眠い。昨夜は、これからの冒険を思い、中々、寝付けなかった。
下のリビングで、コーヒーをゆっくりと飲む。
やや濃目のアメリカンであるが、そこから立ち昇る湯気をゆっくりと
眺める。湯気は、まるで生気を帯びた様に、ゆらりと口にまとわりつく。
時間がゆっくりと過ぎて行く。
数日前まで咲き誇っていた梅の花は既に小さな若芽に変わり、あるものは
緑に変化しつつある。やや黒ずんだ褐色の枝には、まだ少し弱い朝の陽
が褐色の中にある白い斑点を浮き上がらせるように差し込んでいる。
庭にはいくつかの墓標があった。それは墓標と言うには、楽しさの見える猫
の焼き物であったり、犬の置物であった。すでにここには、2人が残った
のみか、そんな考えが頭を支配していた。この椅子にも何年世話になった
のだろう、膝で眠る今となっては唯一の家族となった三毛の猫を見る。彼女もすでに10歳ほどになる。充分すぎる時間を生きた、と彼は思った。
それから、湧き上がる憐憫の情のために眉をよせ、頬をよせ、見守った。
猫は、彼が触れると、涙ぐんだような片目を開けた。その眼のすみに黒色の
にかわのようなものが、べったりこびりついている。彼女は手を伸ばして、
猫の頭にさわり、やさしくなでてやった。それから、いつもの食事を
ポーチの床の上の、椅子の下においた。猫は臭いで目がさめた。
頭を上げ、もっとよく臭いをかごうと膝から立ち上がった。それから、
いつもの調子でそれを食べてしまった。彼がもう一度猫の頭をなでると、
猫は大人しい三角の目で彼を見上げた。
突然、猫は咳、痰が詰まった老人の咳、をして立ち上がった。彼はなお
その猫の姿を凝視し続けた。猫は咽喉を詰まらせ、空気を吸い込もうと口
をあけてあえいだが、すぐにばったり倒れた。それから、起き上がろうとしたが、起き上がることができず、再び起きようとして、ポーチから転げ落ちた。
息をつまらせ、よろめきながら、猫はこわれた玩具のように、庭中を
這い回った。彼の目には一筋の涙のようなものが流れた。
猫は再び倒れ、からだがピクピク痙攣した。それから静かになった。
少し前まで生ける者としてそこにあったものが今は一つの物となった。
梅ノ木の葉が横たわっている猫の身体を覆うように光の影を投げかけている。
やがて彼は立ち上がり、庭に掘った場所に彼女を埋めると、静かにその前に
佇み、手を合わせた。
これで、全ての準備が整った、遠く遥かな道をたどり、目的の地へ出かけるのみ、深く息を吸い込み彼は静かな決意をした。
いつの間にか日は隠れ、やや冷たさを増した空気と陰なき平板な世界が周囲
を押し包んでいた。
思えば、この旅立ちのひそかな思いは、四年ほど前、何やら訳の分からない病名で、緊急入院し、そのまま二ヶ月の間、閉じ込められた、あの時からであろう。すでに、この病気は、始まっていた。多分、その一年前からなのであろう。
数週間前からの食欲不振、寝不足、でも、本人は、気づかずままであった。
しかし、点滴だけのつもりで行った先の病院で言われたのが、このままでは、
あなたは、一生透析生活か!最悪死ぬかもしれませんよ!の宣告。
腎臓が、全部ダメになる寸前だった。すぐに、緊急入院、緊急手術があり、
それから2週間ほどは、地獄の苦しみ、39度以上の熱と毎夜、5リットル
以上の排尿、全くの食欲なし、寄せ来る身体の寒さとそのための眠れない日々。
40数年以上も、病院知らずの人間が人生の総決算と言わんばかりの体たらく。
ただ、その苦しみとは、別に、まあ、もう60年以上も、生きたのだから、
この辺が、俺の潮時かな!との想いもあった。
少し落ち着いた頃から自身の一生について、メモを始めた。生まれた時の
不幸から、小中高生までの貧乏という名で、味わった悔しさや苦しさが、
徐々に蘇る。自身の5回の人生の転換では、設計技術者としての開発
までの苦しさと完成した時の喜び、システム設計者としての顧客と一緒に
システムを創って行く事の面白さ、45歳の時の決意を実行すべく57歳での
早期退職からコンサルタントへの転進、それもすでに、10年程となった。
しかし、ここまでに至る家族への大きな負担は、高度成長時代人間特有
の会社ありきで、その正当性をとって来た。時代も変わり、人も変わる。
苦しみながらの、今までの自身への訣別を感じた。すでに、残り
少なくなった人生に、今まで通りの形に自分を貼り付けておく意味は無い。
ここ1年ほど、心にわだかまっていた影が、明確な形で姿を現した。
今までの60年以上の生きて来た中での、自身の想いと行動を
赤裸々に、自身に映し出すことにより、虚像と実像は、明確に分離され、新たなる実像への、何もない自分を知った。多くの人がそうである様に、過去に自身を埋め、僅か数年先にも、何も期待しない自分がある。縮退する心は止めどなく、縮退するのだ。そして、気が付いた、俺はこのまま老醜となり、朽ちたくない。残された時間は、大分少なくなったが、現在までの流れから
決別し、新しい自分探し、残された時間と新しい心で、最後のステージに乗るべきではないのか。
病気一つしたことの無い自分が与えられた天からの配剤なのだ。
今回の病気を通じて、更に、そして、絶えず、私の中に、反芻してきた、他力本願とそれに相通じる社会に生かされている自分、の2つのフレーズが更に深く感じられる。
長い二ヶ月の病院暮らしであった。
朝日の中で、老人が一人、白い病院の廊下に、黒く長い影を落として、座っている。やや橙色がかった窓辺に向かって泰然自若のその姿は、何やら神々しい物を感じる。朝はまだ早い、既に外は、秋の兆しを見せ、夏の暑さは、片隅に追いやられて行く。その少し寒さを感じる中で、彼は何を思う。
自身の病気の深さに絶望しているのか、退院を迎えはやる気持ち抑えきれないのか、既に、退院の目処がついた私自身の気持ちを写しているのか、廊下全体が、光り輝いている様だ。人の心は、勝手な物だ。眼前の姿や形は、変わらないのに、心に映る姿形は、まったく別の姿になる。
死を意識した時もあった。そのとき、見たのが吉田松陰の留魂録の一節。
「今日死を決するの安心は四時の順環において得る所あり。けだし彼の禾稼
(かか)を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り禮を為り、村の声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功を終わるを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり、しかれども義卿の身をもって言えばこれまた秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死するものは十歳中自ずから四時あり。
二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以って短しとするはけいこして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以って長しとするは霊椿をしてけいこたらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。」
いくら歳をとって死んでも、それは春夏秋冬があるように、若くして四時の順環、人生の節目がきちんとある。すでに若くしてとはいえないが、その時なのかもしれない、と。
社会の変化に適合していくとの自身の勝手な思い込みから、うわべ的な発想と行動が目立つように成って来たという漠然とした寂寞感、30代、40代と心身ともに、自身の全精力を掛けた時の様な、肉体的には過酷であったが、
心身は充実していた時の気持ちが、無くなって来たのでは、と言う危惧感があった。少し意識の中で、時間を四〇数年前に引き戻せば、必死で、設計図を書き、試作品を徹夜で仕上げている自分がありありと見える。設計のミスが見つかり、上司から大目玉を食う自分が居る。それでも、製品として完成し、顧客から感謝される自身の晴れ姿が見える。体は、どうしようもなく、疲れきっていたが、その充実度は、わが身に満ちていた。しかし、その様な昔の思い出話
とは、裏腹に、同世代の友人たちも、寄って話をする時に出てくる「抜け殻化している自分」のフレーズ。悠々自適な生活で毎日を過ごしていると言うが、酒が入り、その場に自由な空気が漂い始めると、出てくる空白な時間との闘いと漠然とした、存在するが、存在しない自分への不満が一気に噴出してくる。
とめどなく広がるその影の部分は、そこにいる全員の影でもあるようだ。
まあ、俺は、少しはマシかな、と変な優越感に浸って来た自分を見るが、
どうも、それは、自身の勝手な思い込みでもあったようだ。
結局は、皆と同じであり、「自分抜け殻化している」をコンサルタントをしているのだ、と言う虚飾で覆っているから、なお更、始末が悪いのかもしれない。システム作りの支援でも、経営戦略化の支援でも、結局は、顧客への知恵と知識の切り売りであり、30数年前のモノを創るという、喜びは味わえない、その寂しさ。僅か、3年前には、このような心境もなく、以下の様な年末最後のブログを書いていたのだが、人の心は、流転。
「今年もあと数時間である。1年を総括するつもりは無いが、色々な点で
変化を感じる日々であった。最近よく聞くのが「民主党の最大の功績は、
国としての今後のことについて主婦を含めた政治とは縁の無い人への関心の増加」とのこと。確かに、借金は膨らます、対外的な処理は流れのままで何も
出来ない、など政治とは呼べない状況が続いている。
国としての段階が「繁栄から衰退」へ向かう中、よほどの根性?が無いと
無理とは思うが。
まだ、バブルの意識と仕組み、体制のままでいけると思う方が多いのだろうか?
個人的には、中小企業の経営支援と地域活性化のための支援をしているのだが、
地域の活動への若い人の参加と意識向上が大きくなっている。
今、県レベルで地域をコーディネートできる人の育成を主たる目的とした塾の
運営を少し手伝っているが、今までの卒塾生と大きく違うのが、極めて濃密な
関係をリアルとITソリューションで作っていることである。
ビジネスでも、インターネットをベースとした関係が更に強まる中、ここでも、
ディジタルネイティブの20代、30代が活躍を始めている。
パソコン、モバイルを使うことが当たり前の世界なのである。
この流れが数10年後、地域も大きく変える事になるのでは、と期待している。
県と市の幾つかの改革的な委員会に出て来た。
金の無いのが、組織の低下、人員のモラルの低下に少しづつ影を落としている
ようであるが、改革への歩みも始まっている。
特に、行政とそのサービスを受ける住民の役割の見直しは緊急の課題である。
行政メンバー、住民の意識は、まだ、旧態のままである。
サービスをする人とされる人の明治以降の役割のままである。
しかし、これをともに、助け合う形での「結」「協働」の旧来からある
「あるべき人々の関係」に修復する必要な時期になっている。
行政との関係も変化すべき時期である。
ソーシャルメディアが本格的に政治、生活まで浸透してきている。
5年ほど前のWeb2.0という新しい、消費者参加の動きが、様々な
Webソリューションを活用しながら、社会を動かす力となってきている。
「つぶやき」という形で個人の思いが政治を動かしたり、日本、
アメリカの人口よりも多い人が参加しているWebでのコミュニティの存在。
個人的なつながりからそのつながりを活かしたビジネスとしての展開。
新しい人とのつながりが急速に増加している。
ただ、残念ながら、この流れを中小企業の経営者は十分捉えているとは言えない。ここ数年で、色々な中小企業の支援をしてきたが、先ほどの地域での若者のWeb活用の当たり前さに比べるとまだまだ少ない。
成功体験の大きいほど人、組織は変われない。
我々の周りが正に、その状況ではないのか、変化すべきことに慣れていない
もどかしさであるが、若い人に芽生えつつある新しい意識と行動で次への変化
を期待したい。」
この生きることにやや疲れを感じた時期に、ほぼ同じ歳の退職老人が、1000kmを歩き通す、ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅、と言う小説を読んだ。これが、ずっと心のどこかにもう一つの塊として残っていた。
昔お世話になった女性が、ガンになった、と言う手紙が届いたところから
それは、始まる。登場人物は、ハロルドとその妻、そして自殺した息子の
影、ガンの女性、隣人の老人であるが、イギリスの初夏の風景と途中で
行合う人々の交流が、きめ細やかに書かれている。歩くと言う行為の中に、
自身と人間の真の姿を見出し、息子への負い目、ガンになった女性への
償い、妻との心の大きな溝を自然が癒して行く。子供時代のその不遇な
環境と生い立ちから、目立たない人生を生きてきた人間が、ガンで生死
の境にある女性に、昔の償いを果たさねばならない、と言う強い気持ち
が、途中の挫折したいと言う気持ちをも乗り越えさせ、肉体的にも、
絶体絶命の状況を乗り越えさせた、それは、なんなのだろうか。
状況は、大分違うし、肉体的にまだその苦痛を味わっていないが、
その空しさと少しある家族との諍い等、自身の内に秘めるものは
同じ様に思える。
自身の過去の栄光?(と本人は思っているが)との決別が必要と
なっていた。過去の自分がしてきたことへの悔いは、一切無い。
此処は、少し、ハロルドの場合と違うし、息子には、その時の
自身の気付きを遺言代わりに、伝えた。しかし、自身の真の姿を
見出し、人としての存在価値を明確には、分かっていなかった。
ハロルドの場合は、1000kmを歩き通すことで、それを成し遂げた。
心情的には、凄く納得観のある作品であり、今の自分に対して
痛烈な一撃として、わが身に強い衝撃を与えてくれた。
自分にも、そこに、求めるべき、そして、残った人生への回答が
あるのでは、ないかという大いなる期待が出てきた。
どこかで、自身の完全な否定と決別が必要となっていた。
退院後、今までの蔵書をほとんど捨てた。技術的な専門書、経営関連の書物、
小説など今とこれからの自分に必要とは思われないもの全てである。
ただ、その一つ一つが自分の人生であり、過去を映し出しているものであり、
自身の皮膚を1枚1枚剥ぎ取っていく気がした。この剥ぎ取った体に何が
残るのか、分からない。庭にある木々の如く冬の間まったく枯れた様に過ごし
やがて春になると小さな芽吹きから大きな花をつけ、緑豊かな葉になっていく
事ができるのか、そのまま枯れたままで庭の片隅に打ち捨てられるのか。
人との出会い、そして本との出会い、人生には、その出会いにより、
次へのステップが見えてい来る場合がある。私自身も、既にそれを
5回経験している。息子たちには、コレを5回の転換として、己の姿を
見せた。しかし、これからの父とその心情までは、見せられなかった。
自身が、まだ、分かっていなかったのだから。
ーその一文、
「人生という名のジグソーパズルのピースは最終的に全て捨て去られる
運命にあるのか?そんなものは結局無に帰してしまったというのか?
ハロルドは今わが身の無力さを思い知らされ、その重さに耐えかねて
気持ちが沈むのを感じていた。手紙を出すだけでは、足りない。
今の状態を変える方法がきっとあるはずだ。
(正に、私が病院で感じ、思ったことでもある)
ハロルドは思った。旅は今まさに本当に始まろうとしている。
歩いてべリックに行くと決めた瞬間に始まったと思っていたが、
いまはそんなことを思った自分がいかに単純だったかがよく分かる。
始まりは、一度だはなく、二度も三度もありうるし、始まり方も
いろいろなことだってあるものだ。おれは、自分の弱点に真正面から
向き合い、それを克服した、だから、本当の旅はたった今この時点から
始まるのだ。」
旅するということは、多分、人生と同じ。私自身、今回の転換に
至るまでに、5回もの始まりがあった。
「人々の生活音に充ち満ちた町を歩き、町と町をつなぐ田園の道を歩きながら、
自分の人生のいくつもの瞬間を、いま目の前で起きたばかりの事のように理解した。
時には、自分が現在ではなく、過去の世界に生きていると思う事さえあった。
頭の中でこれまでの人生のさまざまな場面を再現しては、それを外側の世界に
追いやられて手出しの出来ない観客の気分で眺めた。目の前に、かって自分が
犯した過ちや一貫性を欠いた言動、してはならなかった選択の数々の数々が
再現されている。」
私も含め、この選択の数々を、忙しいという言い訳で、多くの人は、
避けているのでは?私自身も、今回の大病が無ければ、この意識は
無かった。
「そして、自分がもう半分ほどの忘れてしまった世界のことを考えた。
家の中で、街中で、あるいは車の中で、人々が日々の営みを繰り広げる世界。
日に三度食事を取り、夜になったら眠り、人と人との付き合いのある世界のことを。
そして、彼らの日々が安泰であることを喜び、そんな人々の中からついに抜け出せたことにも満足していた。」
今多くのシニアと呼ばれる人々は、どう思っているのか?
「眠くなれば眠り、また起き上がって歩きはじめた。星空の下を歩き、眉月の
やさしい光を浴びて歩いた。木の幹がまるで白骨のように光っていた。
風に抗い雨をついて歩き、陽に焼かれた空の下を歩いた。生まれてから
ずっとこうして歩くことを待っていたような気がした。」
始めの意気込みからこの心境になれるのだろうか、自信はない。
むしろ、ドンドン、自信は遠くに去って行く気がする。
しかし、途中挫折しようと、これが我が運命と想い、進むのみである。
自身の周辺を見れば、まだまだ残る日本景観とそれを支える
人々の暮らし、琵琶湖には、周辺の山々のと合わせ、それが残っている。
人によっては、単なる山里、田舎の街かもしれないが、少し前を辿れば、
司馬遼太郎や白州正子が描いた世界が、まだ、息づいているのだ。
ちかくには、剥き出しのコンクリートの高速道路が通り、効率性のみ
追求した現在の姿がある。また、昔は、伸びやかに、鳥たちが飛んでいた
森は、徐々に、その姿を消されかけてもいる。比良山の麓に、広大
とは言えないが、人々が生活出来るだけの糧を生み出していた田畑も
人間の欲望とエゴのため、宅地となり、人のための空間となった。
和辻哲郎の風土に見られる日本文化の特質も、まだ、ここに息づいて
いるはずなのだが。
「即ち、葉末の露の美しさをも鋭く感受する繊細な自然の愛や人笠
一杖に身を託して自然に溶け入って行くしめやかな自然との抱擁や
その分化した官能の陶酔、飄逸なこころの法悦、、、、。」
徐々に、広がる変化とその中で、漂い続ける自身の姿も、垣間見える。
我々、団塊の世代と呼ばれる人間は、ある意味幸福であり、ある意味、
不幸そのものかもしれない。
働けば、働くだけの幸せとなる、と思っていたが、それは、お金が
稼げ生活が便利になるとの意味でしかなかったのかもしれない。
私の人生は、幸福だったのだろうか。
最近、心の中で反芻している問いかけである。
その問いかけに、誰も答えてくれない。
これからの旅に、淡い期待を持っているものの、最後に訪れるその地に
その答えがあるかは疑問でもある。
よく言われるのが、「過去が未来を決めてしまう」と観念を捨てるべきであり、
今も、これからも、感謝と言う行動を絶えず持つこと、そして、忘れ去ることと全てのことの容認である。
感謝については、2ヶ月の病院暮らしで、つくづく「社会に活かされている自分」を感じた。難しいのが、忘却と容認である。
この旅は、これを少しでも自身の中で消化することでもある。
そこに初めて己の人生の幸せを感じられるのであろう。
しかし、それを良しとして、定年と呼ばれる強制的な社会から隔絶された
同年代の人々、友人のいまの日々は、どうであろうか。
よくメディアが紹介する、子供達の遊び相手やボランティアで、
毎日を過ごす高齢者たちがいる。彼らが本当に、その人生に満足
しているのか、私は、大いに疑問である。
既に、日本では、65歳以上の人が3200万人、半端な数字ではない。
そして、この人々の大半が悠々自適を決め込み、ただ、家に居る
だけの生活と残った人生に甘んじている。
私の周辺は、結構、活動意識の高い方々が居られるが、それでも、
微々たる人数である。何かあると顔を合わすのは、その人たちである。
滋賀県には、団塊の世代と呼ばれる人でも、7万人はいるのに。
その人は、居ても居ないが如し、社会と隔絶した日々を過ごしている。
団塊世代の想いも色々とあるようだ。
ー私は昭和25年生まれだから、団塊世代のシッポである。
ほとんど団塊世代と言って良いのかもしれないが、
圧倒的多数の先輩達の背中を見ながら生きてきたという感じ。
小中学校時代の彼らは、とても元気で頼りがいのある人たちだった。
青春期には、先輩達は熱に浮かされたように学生運動の旗を振り、
私たちを随分アジって下さった。
どのように世の中を変えてくれるのかと思っていたら、
あっという間にちゃんと就職・結婚したりして、
企業戦士や教育ママになっていったようだ。
そのうち、それぞれに社会の中核となっていったはずで、
人数が多いせいか色々な人がいるようにも思う。
しかし、青春時代に(先輩達に)期待していたほどには、
個性的な大物はさほど多くもないような・・。
気がつけば中年になり、なぜかこの世代、昨日の日記にも書いたように
少し脆いところがある人も多い。(分母が多いから目立つのか?)
もちろんこの私は、圧倒的大多数の「その他大勢」として生きている。
それでも、この世代の強みは、やっぱり人数が多いことだ。
人間は、お互いに協力し合うことが出来れば、
様々な困難も何とか乗り越えていけるものだ。
文芸春秋で堺屋太一さんが、
「ブーム”を創り続けた世代が新たな『富』を生む」と書いて
いらっしゃるようだが、そこまで楽天的には考えることは出来ない私だが、
そこそこ元気に生きてゆくんじゃないか、とは思う。
私もそうなのだけど、
結構自分の身を守ろうとする力のある人も多いと思う。
やはり、たくさんの同世代人との競争や切磋琢磨の中に生きてきたから、
打たれ強いと言う面もあるかもしれないし、退職後は競争からははずれて、
多少の蓄えと年金でつましくのんびり生きようとするのではないか。
でも、その前に「燃え尽き症候群」に陥る人もいるだろうから、
そこが要注意だ。」
別のつぶやきもある。
「先日、NHKが実施した“退職後の希望・不安”という団塊の世代を
対象としたアンケートの結果をある番組で紹介していました。
“何か熱中出来る趣味を持ちたい”と答えた人が70%もいたそうです。
次いで、健康に関する不安をあげた人が60%というものでした。
仕事に熱中して定年を迎える団塊の世代にとっては、定年後に仕事に
代わる熱中出来るものを見つけられるかということが深刻な問題だと
解説者が語っていました。退職後に一日の時間をどうマネージするかを
レクチャーするNYPDの退職警官のためのセミナーについて、このHPの
“Gの恋文”でも紹介したことがあります(時の旅人参照)。
仕事に熱中し定年を迎えてしまった人たちにとって、空白の時間を
どう管理すればいいのか不安になってしまうのは当然なことかもしれません。
しかし、“何か熱中出来る趣味を持ちたい”と答えた70%を超える人たちが、
趣味がないことに不安を感じているとなると少々問題です。
“団塊の世代は退職後の時間の管理に不安を持っている”と世の中
が無責任にも過大に取り上げて報じることで、“何か熱中する趣味が欲しい”
というささやかな願望が、催眠術にでもかかったように“趣味がない
からどう生きていけばいいのか分からない”という大きな不安へと
変わってしまい、悪循環を生み出してしまった結果が現在の状況では
ないかと考えることも出来ます。
メディアで報じられる度に団塊世代の視聴者は漠然と不安を覚え、
いつの間にか確たる根拠もないのに“退職後の生活に不安を感じている”
ことが既成の事実となってしまったとも言えるのではないのでしょうか。
でも、考えてみてください。
退職後の生活に多少の不安を感じてしまうのは、団塊世代に限った話
ではなく、いつの時代でもそういうものなのかもしれません。」
更に、ハロルドの想いと私自身のこれからの想いと重なる文章がある。
「こうして自分の足で歩いていると、人生はこれまでと全くの違うもの
に見えてくる。土手の隙間からのぞく大地はゆるやかに起伏し、やがて
市松模様の畑地に変わり、それぞれの境界に生け垣や木立が並んでいる。
ハロルドは、おもわず脚を止めて目を凝らした。緑にもたくさんの色合い
がある事を知って、自分の知識の足りなさをいまさらのように思い知らされた。
限りなく黒いベルベットの質感の緑色もあれば、黄色に近い緑色もある。
遠くで、太陽の光が通り過ぎる車をとらえた。
たぶん、窓にでも当たったのであろう。反射した光が流れ星のように、
震えながら、丘陵地を横切った。どうしてこれまで一度もこういう事に
気付かなかったのだ?
淡い色の、名前も知らない草花が生け垣の根元を埋め尽くしている。
サクラソやスミレも咲いている。、、、、、
小さくマッチ箱の様に見えるのは、民家と車に違いない。
あそこには、あまりにもたくさんのものがある。たくさんの
人生が、日常の営みが、苦しみと闘いの営みがある。
だが、人びとは、ここからハロルドに見られていることを
知らない。ハロルドは、ふたたび、心の奥底から感じた。
自分はいまこの目に映るものの外側にいると同時に内側
にもいる、この目に映るものとつながっていると同時に
そういうものを突き抜けようとしている。、、、、、、
歩くとは、じつはそういうことなのだ。自分はいろいろなものの
一部であると同時にその一部ではないということだ。
この旅を成功させるには、そもそも最初に自分を駆り立てた
あの気持ちに忠実であり続けなければならない。」
このような気持を継続する事が可能なのであろうか、ふと思う。
「自分の旅にルールがない事をあらためて自分に言い聞かせた。
その昔、一度か二度、自分は、ちゃんとわかっていると思い込んで
いながら、その実、何もわかっていなかったと言うことがあった。
もしかしたら、この巡礼者たちについても、同じなのではないか?
ひょっとしたら、彼らは、この旅の次の段階で何らかの役割を
演じる事になるのではないか?ときとして、ハロルドは、分からない事が
最大の真理で、人間は、知らないままでいるべき、と思う事があった。」
多分、ハロルドが味わう苦労、苦役は想像以上であろうし、
その根底となる意志と目的の点では、わたしの場合は、
遥かに及ばない。しかし、途中挫折してもいい。
「歩くとは、じつはそういうことなのだ。自分はいろいろなものの
一部であると同時にその一部ではないということだ。」
また、司馬遼太郎が街道をゆくと言う、全国の旅紀行を書いている。
第一巻は、甲州街道長州路、それに、巻頭は、湖西の道である。
名誉と呼ぶべきか、その古さ故なのか、定かではないが。
湖岸の古称は、志賀だそうで、楽浪(さざなみ)の志賀と呼ばれていた。
大津から堅田を通り、北小松から安曇川方面に向かい、朽木渓谷
では、周辺の歴史の流れを感じさせる情景が描かれている。
最近の朽木は、道路も整備され、行きやすくなったが、その景観は
あまり変わっていない様である。
これが、志賀の良さなのかもしれない。人は歴史に流されるかもしれ
ないが、その風土は、大きく変わる事はない。
私のこの旅に関係した街道や情景についても、43冊の中で、10冊の
中に、色々と描かれている。時間的には、僅かの違いかもしれないが、
今の各地の情景と合わせ、司馬遼太郎の目で見た各地の姿、人の想い
との対比で、今回の趣旨である原風景のイメージが伝われば、よい
と思う。
自身の決別に向けた旅ではあり、願わくは、ハロルドが体感した様々な
経験と気付きを期待する。そして、我が家の周辺でも、加速度的に
起こっている自然破壊と地方の町や村の縮退を直接に感じ、これから
生きていく志賀での最後の人生への大いなる示唆を感じられれば、
大いに、結構なことであるのだが。
妻は、この短気で、自分勝手な夫に少し失望していた。
「あなたは、自分勝手に生きて来たんだし、これからもその様に考えている
かも知れないけど、認知症や介護が必要になったら、そんなことやってられないわよ。
そんな大きな体の面倒はよう見切れないわ」。
良く夫に言うのだが、どこまで聞いているのか。
「私がもう少し若かったら、離婚して、1人で気楽に過ごすは」。
本音と夫への忠告が半分づつであったが、既に30年近い結婚生活がそこにあった。
よくここまできたものだ、感慨を込めて思う。
思い起こせば、京都から横浜に来て、ほとんど会社に行っている日々であった。
20年ほど前に京都に戻ってきても、その生活は変わらない。
毎日が、子供と過ごすだけの生活である。二階の寝室で、当てのない夢想に耽る。
「もう疲れた、離婚も考えようかしら」。母は、何も言わなかった。
男の子三人との格闘の日々である。1階のダイニングでは、次男と長男が何か
大声を出しながら、喧嘩しているようだ。その声が響き渡っている。
テーブルの上には、肉じゃがに青物を添えた夕食が寂しげに置かれている。
黒い外の空気をそのまま部屋に呼び込むような風が窓を揺らしている。
テレビからは、誰の曲であろうか、静かに流れ出てくる。
「どうして、東京の人間と結婚するの、私には分からないね」。
既に何回となく聞かされ、母の口癖となった。
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