2016年1月17日日曜日

志賀を行く


後ろで、やや掠れた金属音とともに、門の扉が静かに閉まった。外はすでに

その明るさを存分に増していた。彼の心の暗さとは対照的な天気だ。

ふと思えば、今日は5月16日、旧暦の3月27日であった。松尾芭蕉が

奥の細道に出た日でもある。特別にこの日を選んだわけではない。

でも、今の和邇にはその偶然に、不思議さを憶えた。

暫く、この楽浪(さざなみ)の志賀ともお別れである。

まずは、足を比良山の見える方向に向ける。

右を見れば、遠く微かに鈴鹿の山並がどこか頼りなげに薄く延びている。

さらに眼を左へと緩やかに転じていく。三上山の形のよい山姿が静かな湖面の

先に浮かび上がる。その横には八幡山と沖島が深い緑の衣に包まれるように

横たわっている。更にその横奥には、御嶽山を初めとする木曾の山並が

薄く横長に伏せており、その前にはその削られた山肌が痛々しい伊吹の

山が悄然と立っている。全てが琵琶湖の蒼さを照らし出すように薄明るさの

中にあった。よく見る光景だ、和邇は思った。だが、一転空に眼を向ければ、

初夏にしか見られない素晴らしい舞台があった。遥か上には、櫛を引いたような雲が幾筋もその軽やかな形を見せている。その下には、繭がその固い形を

ほぐすような雲がふわりと浮き伊吹の上からゆっくりと比良の山に向って流れ来る。さらに、しっかりとした二本の飛行機雲を切り取る様に、その下をやや黒味のある雲がこれも比良に向かい素早い流れで和邇に向うように流れ来るのであった。ここから見える空は平板としてその奥深さを知る事は出来ない。

しかし、いくつもの雲の流れがその空の深さを示すようにお互いを遮ることなく流れすぎていく。久しぶりに見る、感じる空の景観であった。

鷲が2羽、蒼き空の上から見守っているように、比良山の方へ飛んでいく。

ゆっくりと、琵琶湖に向かって、その歩みを始めた。

既に夏の風情を湛え始めている朝の光はその強さを増していた。

それに合わすかのように歩調を少し早めに歩いていた。

湖岸の様子を見たくなり、ゆっくりとした足取りで青白く幾筋かの波を

見せる湖に向かってその歩みを進めた。

 

 

この坂を歩いて、20年ほど、四季の中で、様々な色合いを感じたものだ。

春の声が聞こえ始めると、

薄灰色のとばりが湖面まで垂れ下がり、灰色の水面を覆う形で琵琶湖がいた。

その上には、わずかに残る力を振り絞るが如き姿で朝日がわずかな形を見せている。既に比良山には、頂上を雪の切れ切れが白く大きく被っている。こちらも薄墨の背景に浮かぶ山々の山水画の風情をしている。

和邇は坂をゆっくりと、その歩みを確認する仕草で下りて行く。肩に白い粉が

かかる。雪であろうと思った。昨日よりもその寒さは一段と厳しくなり、全ての動作を油の切れた機械の様で、見せている。夏、秋と華麗な姿を見せていた家々の草花もすでに、茶色に変色し、和邇の気持を一段と寂しくする。坂を下り左へ曲がれば、ルナの待っている姿がそこにある。今日も、あのぼんぼりのような黒い尻尾をふって、一段の愛想の良さを見せるのであろう。まだ1年ではないが、息子が飼ってからその体躯は一段と逞しくなった。一応、我が家の孫娘ではあるが、日々の行動からは、どうしても男、雄犬としか見えない。やんちゃぶりは一段と増してきた。散歩に行ってももう妻の力では、抑えきれない。ルナに合わせて行かないと、彼女も力尽きた様相で戻ってくる。

元々、寒さには強い犬であるから、最近の散歩も元気そのもの、おかげで和邇も朝の寒さを彼女の元気さで吹っ飛ばしている日々である。今も、先陣をきる

勢いで急な坂を駆け上がっていく。和邇もリードに引き連れられ、その老体を

必死に前に出す。前方から小さな茶色の犬が若い娘さんに連れられて下りて来る。まるで機械仕掛けのような足の運びに思わず、和邇も苦笑する。

黒のジーパンに赤いセーターの彼女は、ルナの勢いに思わず立ち止まる。

その顔には驚きと可笑しさが混在している。眼は一心にルナの黒い毛並みに白の線のある、その顔に注がれている。一緒に茶色の犬も恐ろしさと珍しさを同時にたたえた仕草でルナを見る。しかし、その情景もルナの一声で、一瞬に変わる。茶色の犬も声で応戦するが、どこか弱々しい。彼女も眼に驚きの色を見せつつ通り過ぎて行く。この犬見かけと違って結構怖そう、とそんな表情が読み取れる。

右手には、更にその灰色を強めた比良山がこちらを見下ろしている。

黒い雲が次第に周辺に積み重なり、白いものがルナの身体にもはっきりと落ちていく。

明日の朝は雪かな、そんな想いが浮かぶ。

やがて、あけた扉の向こうには温かい空気が2人を迎える。

夏の暑さに負けそうな時も、

和邇は、一瞬自分の目がおかしくなったのか、と思った。いつもは、紺青の水を静かにたたえている琵琶湖が見えない。朝日を浴びながら、坂をゆっくりと下りつつこの強烈な暑さで、身体も頭もおかしくなったのでは、と思った。春霞ならぬ夏霞の朝であった。道路には影一つ無く、まるで砂漠が如き様相である。汗が容赦なく顔に幾筋もの流れをつけていく。2ヶ月ほど前に味わっていた朝の清清しさは影を潜め、灼熱と化した太陽が中天にどっしりと居座っている。後ろを振り返れば、比良の緑の稜線が透き通った青さの中に、まるで太い毛筆の線で引いたように描かれている。

我が家の孫娘のような犬のルナを息子が飼ってから約半年、そのルナを我が家に連れてくるのが毎朝の日課となった。やや寒さの残った3月から正に百花繚乱の春の草花を味わいながらの4月から6月、そして時は確実に過ぎ行きて、今は夏の真っ盛り、連日の猛暑である。

我が家に向うには、この急な坂を上がるしかない。それでも、若いルナは和邇を先導するかのようにどんどん先に行く。若さの違いであろうか、和邇が衰えたのか、いずれにしろ、後ろから刺し込むように朝日が2人を押し包んでいる。

ふと、見れば淡いピンクの色を付けた百日紅の木々が和邇を和ましてくれている。味気ない緑一色の中にその紅の花は、真珠の粒のごとききらめきと優しさを道行く人に与えているのだ。一段と増した汗の川が顔全体を覆っているが、

ルナの影を見る形で、右の足をだし、そして左の足を出すという単純な行為

に更ける和邇であった。ルナはこの暑さを感じているのか分からないほどに

歩く先々の様々な匂いを感じ取ろうと一生懸命である。公園の横の太田さんが

花に水をやりながらこちらに挨拶を送っている。和邇もルナもそれに応えるが、

暑さがその間を裂くがごとく、会話もなく、一段と増す暑さに我が身を委ねる。

角を曲がった先に長く白く光る道が続いている。この一番先に我が家があるのだが、まるで数キロもあるように、和邇には見えた。

これが明日も続く、そして明後日も、人生とは終わりのない道、そんな思いで

我が家の扉を開き、元気なママの声を聞く。

秋の清清しさに生きている事を感じたとき、昔、和邇は秋が好きだった。夏の暑さに打ち萎れるのは人間だけではない。

安物のクーラーでは防ぎきれないあの強烈な暑さの流れをまともに受け、

その暑さに気の狂いそうな自分がいた。この身の弱さを年とともに感じてきた。

猫たちも一緒だろう。今年の夏は、チャト、ナナ、ライが1回のクーラーの効いた部屋で日がな過ごしているのが、目立って来た。元気なのは、ルナとハナコの若者だけの様である。ハナコの平然とした様とルナの部屋中を駆け回るエネルギーの凄さをママとともに、唖然としてみる日々が続いていた。そして、夏の過ぎ去りにあわせて、秋は、身体も意識もその暑さから逃れ、新しき躍動を見せたからである。この朝の素晴らしさは何ともいえない。琵琶湖は紺青に輝き、透き通るような先には、鈴鹿山脈や伊吹の山々が、その曇りなき姿をガラス細工のように見せている。白い鰯雲が中天高く泳いでいる。どこからか、研ぎ澄ました光輝くような風鈴の音色が聞こえてくる。その白い響きに、坂を下りつつも、和邇は左右に気を配る。通り過ぎる家々の庭には、黄色の大輪をつけた菊が、その堂々たる姿を見せている。

既に色づき始めた紅葉の木々が数軒おきにその紅と黄緑、そしてまだ残る深緑

の葉を幾重の重なりとなって庭庭に彩りを添えている。更には、夏は雑草の大群に覆われていた空き地には見事な穂をつけたススキの一群が、支配を始めている。ルナもさすがにこの暑さには、やや体力を落としていたのであろう。

私を迎える態度も一段と激しさを増し、玄関の扉を開ける途端に、飛びついてくる。坂を上がるのも、ただひたすら猪突猛進の如き所作で、和邇もそのリードに引かれるが如き速さである。我が家へ向う路では、ノンビリと比良の山並や先ほど見た琵琶湖の透明感のある姿など見ることさえ叶わぬほどだ。

少しづつ赤さを増す比良の山々も何か和邇を笑いながら応援している様でもある。我が家の着く頃には、まだまだ歩み足りないような顔をして、和邇を見るルナと息を切らせ、中腰なりながら息を整えようとしている老人の態となった和邇が居た。更には、自分の到着を知らせるためのルナの一声が最近の日課となっている。その寒さに身を引き締めた頃、まだ白いものが残る比良山の山並が少しづつ後ろに流れて行く。目の前に広がる蒼き湖がそれに合わすかのようにこれも少しづつ大きくなっていく。春の霞に薄いベールを通して見るような沖島や八幡山の対岸の風景もどことなく暖かさをもって見える。右手のやや深い森からは鳥たちの朝のさざめきがときに激しく、時に密かに和邇の耳の届く。この坂も何十年と歩いた道ではあるが、四季の色合いを感ずるのは、春である。特に、身体の衰えを感じ始めた五年前から和邇は、今まで好きだった秋よりも春に喜びを感じている。薄暗い空が多くを占め、山と湖をその力で押さえつけるような冬の死に近い風情は、死が近くなったものにとっては、何の慰めにならないし、寒さの中で縮こまる自分の姿に情けなささえを覚える日々でもある。そのような季節から雨水、啓蟄といった二十四節気のいう生命の息ぶきを感じる春は、今の自分にとって、大きな慰めであり、勇気付けでもあった。足下に眼を落とせば、芝桜の可愛いピンクがあり、庭にはピンク、黄色、白など様々な色の花たちが一斉に咲き始めている。名もなき雑草と言われる草たちも冬のややくすんだ緑や茶褐色から光る緑へとその姿を変えつつある。歩き過ぎる家々の風情も、同じ姿であるはずだが、その醸し出す空気は緩やかな暖かさで和邇を包み込む。既に、青味の増した芝生の上にルナはいた。和邇を見ると、出迎えへの喜びを身体全体で表している。尻尾を絶え間なくふり、前足をこちらに向け、いつもの片足を上げる仕草で握手を求めて来た。眼を見れば、オッサン早く散歩に連れてってな、早ようしてな、と言っている。ここで飼われてからまだ一ヶ月ほどだが、すでに10年もいるような態度で、この孫娘はしっかりと和邇を見つめていた。

リードを持てば、脱兎の如く坂を駆け上がろうとする。長いペットショップの

狭い空間で過ごして来た憂さをこれ以上ないような仕草で晴らそうとしているようだ。

しかし、想いとは別に、まだ体力不足なのであろう。和邇を引き回すほどの

力はない。結局、この足の遅い老人の歩調に合わせて、やがてゆったりとした

歩みとなる。それでも、家の前に行く頃は、2人ともが、息切れが大きい。

何しろ、片方は4ヶ月近い闘病生活であったし、片方も3年近い狭い檻の中の

生活であったのだから。そんな二人に既に咲き始めた梅の花がその優しい

ピンクの色合いを染め付けている。遠くで、ウグイスの元気な声が聞こえる。

20年の歩みが、強烈な想いとなって和邇の体を駆け巡っていく。

もうこの風景を見られないのでは、微かな想いが湧き上がっていた。

 

坂道は一直線に青き壁のごとき空へと伸びていた。

沁み一つない青き白さを持つ朝空が彼の前面に立ち、それを下に辿れば、

伊吹や八幡の山並が緩やかな線を描き、朝霧に包まれ一幅の山水の形を成している。湖面と対岸がお互いその線を溶かし込み、山水の山々はこれも青く光る湖面と一体となって彼の眼前に広がる。

この情景を感じるとき、彼は生きている、その実感を味わってきた。すでに20年、この坂を下る時、四季折々の色合いの違いはあるものの、彼の心は静かになる。春のやや鈍さの残る青き湖面、夏の深い緑の木々と湖、灰色の山水的な中に紅さの映える秋の朝、冬の灰色がその強さを増す対岸の山並、僅かな違いを見せるこの情景が、彼の心の黒く沈んだ時、やや薄灰で悩みで霞んだ時、いずれの時にも、癒してくれた。しかし、今は違う。

急な坂からは、琵琶湖の群青の光と銀色に輝いて走る電車が見えている。

家々からは少しづつながら初夏の匂いと色が漂ってくる。白い花が咲く花みずき、緑が濃くなりつつあるムクロジ、赤い中に黄色のオシベを見せる寒椿、様々な色が様々な形で私の横を後ろへ後ろへと流れて行く。坂を下り切った一角に小さな田圃がひっそりと残っている。忘れられた様でもあるが、すでに小さな緑色した稲の子供たちが静かに並んで私を見送っている様でもある。

雀が十数羽、その上を激しく飛び回っている。土から這い出してくる虫たちを

狙っているのであろうか、その真剣な仕草からはこれからの収穫への想いが

伝わってくる。

その小さな畑を過ぎるとそこには湖が来ていた。

長く白い砂地が左から右へと大きな湾曲を描きながら延びている。

湾曲に沿ってまばらではあるが松林も続いていた。沖にはえり漁の仕掛け杭が

水面から何十本となく突き出し、自然の中のくびきでもしているようだ。

私が立っている砂浜に向かってゆっくりとした波長をもってさざなみが寄せていた。夏の朝は浪さえも緩やかにさせるのであろうか、春に見たときのそれとは大きく違う。

私の10メートルほど先には、数10羽の鳥たちが青白い空とややくすんだ

色合いの青を持つ湖面の間に浮かんでいる。あるものはえり漁の仕掛け杭の上で羽を休め、何羽かの鳥たちは遊び興じているようでもある。2羽のかもめが

連れ立って水面をゆっくりと進んでいる。遠く沖島と少し黒く霞んだ山並を背景にして数艘の釣り船が浪に揺られ、釣り人がその上で釣り糸を垂れている。

そのモノトーンのような光景を見ながら、これからの旅の事を考えていた。

少し下り、和邇漁港の横を通り過ぎる。冬にはここをよく訪れる。氷魚(ひうお)を買うためだ。鮎の稚魚で、大きさは3~6cmくらい。体が氷のように透き通っているため、「氷魚」と呼ばれている。

氷魚は、釜揚げにするのが一般的。「しらす」のように熱を加えると白くなり、

身はしっとりしていて、舌触りは滑らかだ。そこはかとなく鮎とわかる繊細な

味わいは、琵琶湖の冬の味覚でもある。これをシラスのように温かいご飯に

かけて食べるのは最高である。

だが、今は初夏とて味わうのは難しい。そんな思いの中、朝の漁を終えた船が数艘、漁港の中で静かな佇まいを見せている。

この風景もあと何年見られるのか、そんな想いを心に刻みながら、まずは、敦賀まで約60kmの旅の開始である。

 

琵琶湖は大きい。

この浜辺に立って、すでに16年。遠く沖島の更に奥には、伊吹山が

無様な格好を見せている。人間の飽くなき欲望は、元は優雅であったろうに。

いまは、赤茶けた山肌を半分程晒し、遠目のも、その痛々しさが伝わってくる。

眼を左へ転じれば、比良の山並みが、湖畔に立つ自分に覆いかぶさるように

迫ってくる。右には、遠く一本杉のあたりまで、やや灰色が買った砂浜が

ゆったりとした曲線を描きながら、伸びている。誰かの散歩の跡だろうか、

4つの足跡がその曲線に沿って、やや蛇行しながら伸びている。

いまでも、使っているのであろうか、湖に向かって

数個の板が、浮かんでいる。昔からの営みである証左が、そこに見える。

その先には、100m先まで、魚獲りの仕掛けが幾重のも伸び、水平線を

覆っているかの様だ。

春の霞の中で、遠くの見えない情景と夏のその強さを増した透明感のある

空気、心地よい風のに揺れる松と古木の木々、遠く光り輝く雪化粧を

見せる北の山並み。

すでに、この情景を見て20年は経つ。変わらぬ景観である。

変わったのは、私であろう。

衰え行く足腰に合わすが如く、この情景を見にくる回数も減った。

心の感じる強さも減った。慣れと親しみは、紙一重。もっと、この湖の

持つ親しみと癒しの空気感を味わいたい。

昔ここを拠点としていたと言う湖族の和邇一族は、湖の幸とその交易で、

一帯を支配していたと言う。その残照が残る小さな漁港では、今しがた

採ったという魚達が、未だその元気を見せている。

 

目を手前に向ければ、町域の東部には約16キロの湖岸線が続いている。

湖岸の浜提にはいまだ残る伝統的な集落や企業の保養所などの宿泊施設

が見られる。以前は、夏になると、和邇、蓬莱、松の浦、近江舞子、

北小松などの水泳場がにぎわうが、此処を訪れる人の数は減りつつある。

しかし、花崗岩質の白砂と黒松林の緑とが織り成す美しい湖岸線は、

近くまで迫る比良山の山並と上手く調和し、その景観は変わらない。

白洲正子や司馬遼太郎は、この楽浪(さざなみ)の里を、幾つかの紀行文

に書いているが、その多くは冬に近い季節であり、何か寒々しさの中に、

その感じるものがあったのだろうが、春と夏の生命力溢れる季節の輝きを

なぜ、書かなかったのかいまだよく分からない。比良山系の深い緑と

そこを流れる水と澄んだ空気の味わいをその身に受け、感じなかったのは、

ある意味不幸でもある。

その昔、この志賀周辺を重要な地域と考えていた平安京の人々の想いが

今でも分かる。

 

 

志賀町史の一文からも、それが分かる。

「近江国は以前から都の貴族から真に重要な大国と認識されていた。すなわち、

「近江国は、宇宙有名の地也。地広く人衆く、国富み家給る。東は不破と

交わり、北は鶴鹿に接す。南は山背に通じ、此の京都に至る。水海は清くして

広く、山木は繁りて長し。其の土は黒土、其の田は上々、水旱災い有りと雖も

曾て不穫の憂いなし」といわれた国である。

そして、滋賀郡の「古津」は、遷都の詔と同時に出された詔により、近江京

時代の旧号を追って、「大津」と改称され、湖の道には東と北を抑える要点として

真野郷は」陸の道には北を抑える要点として、古市郷、織部郷、大友郷とともに

従来より以上に重要性を増すことになった。そうした位置付けのもとで、

真野郷に現われた無視できない変化は、高島郡界と接する真野郷北方域の

重要性である。というのは、郷内を通る湖岸の道はもとよりだが、安曇川

中流から朽木谷を通る裏道とともに、和邇川沿いに山道を越えて平安京へ

北から入る道として、北からの人とものを受け止めることになったからである。

沿道の田野や山林で働く人々と其の集落の点在する地域は、いままでと打って変わった

重要性を持つことになった。このことは、やがて、ことに十世紀後半から延暦寺

の勢力がこの地域に及んでくる前史として、十分に留意しておく必要がある。

このような真野郷の地位の重要化は、郷の人々以上に平安京の政府が認識していた。

平安京に先立つ長岡京の時代に滋賀郡に新造された凡釈寺には、延暦7年に下総

越前両国から各50戸の封土が与えられたし、すでに旧大津京の時代以来の伝統

を持つ崇福寺では、大同元年には京内の左比寺、鳥戸寺と共に四七斎が六七斎

は崇福寺だけで執り行われた。

また、霊峰比良山だけでなく、坂本とともに真野郷からも通じる比叡山は、

最澄の「一切衆生、悉皆有仏性」とする新しい理念に基づく鎮護国家論の発祥の

地として、急速に重要さを示し始めた。そして、比良神には、貞観7年、無位

から一躍して従4位下の神階があたえられたのであった。神階とは、有力神

に国家によって奉授された位階を言う。比良の神もここに国家的な高い神階

が与えられたのである。」

 

少しづつ歩を進めながら、和邇は思う。

ここが木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人によって


歌われてきた、のだ。そしてそれが今もこの歩む道に残っている。

「恵慶集」と言う歌集に、旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

「比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く

人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする

岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ

見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 

磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ

唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ

もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし

氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり

よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ」

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な

季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら

山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、

比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる

山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が

作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると

比良では同じ様な景色が見られる。

1丁目に住む俳人の人に聞くと、この地域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、

比良の峰)」「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」

「小松の山」が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」

を題材にして詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は

「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。四季、夫々に良い歌があるんです

よ、

その人は、にこりと笑いながら彼に聞かせたものである。

その人も、既に帰らぬ人となった。

記憶を辿りながら、幾つかの歌を思い出す。

春には、「霞」「花」「桜」が詠まれている。

雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく

近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな

桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖

夏には、「ほととぎす」が詠まれている。

ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

秋では、「もみじ」と「月」が詠まれている。

ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲

もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり

真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ

冬には、「雪」「風」が詠まれている。

吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで止まめや


楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり

楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟

古代の都人は、かように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称


されていたのだ。そして、眼前に、その残り香が強く残っている。

 

 

そして、この琵琶湖と比良山系の豊かな自然に自身の想いを見つけようとする

様々な人々の住まいともなっている。

ある陶芸家と木工作家、画家の想いを聞くと、それがよく分かる

・ある陶芸作家の想いより

琵琶湖の自然は「インスピレーションの源」である。

眼下に琵琶湖が一望できる工房からは、毎日異なった「空の青」と「湖の青」

が広がっている。この風景が作品に大きく影響している。

琵琶湖の白波に感動しては青磁に白い線を入れ、命の源である「水」を表現する。

大自然と対話を繰り返しながら作品作りを進めた。

作品は徐々に評価され始めたが、まだ失敗を繰り返すことも多く、技法に限界

を感じかけていた2005年、日本伝統工芸展に出品した作品が、宮内庁

買い上げとなった。「何か大きな力」が自分を後押ししてくれるように感じました。

これからも人に力を与えられるものを作りたい。

願わくば、焼き物への関心が低い人へも」

・桶職人と言うよりか、木の工芸家の方は、

比良工房で製作している桶は、大きな檜などの原木から作り上げていきます。

材木屋さんから丸太で届いた木は、割るのにも一苦労。

小さなぐいのみも、おひつも、まずはこの作業から始める。

大人がしゃがんだ高さほども直径がある木か形を創って行きます。

ここまで育つのに、どれくらいの年数がかかったのでしょう。

「樹齢と同じ年数使える桶を作れ」祖父の言葉です。

そして、この志賀の自然環境が私の作品つくりには欠かせないもであり、

京都からこの地に来た成果であります。

・あるアメリカ人の画家

ある日、京都の山里で見かけた茅葺き屋根の民家に一目惚れして、スケッチを

重ねるうち目にしたのは、過疎化した山村で茅葺き民家がトタン張りになり、

現代住宅に建て替わり、また朽ち果てていく光景だった。

「美しい茅葺き屋根の家を改築して住みたい」という思いが芽生えていく。

方々探し歩いた末「棚田の曲線が美しく、琵琶湖の対岸に湖東平野や

鈴鹿山脈まで見渡せる、広がりのある景色がすばらしい」のと、

交通の便の良さが決め手となり、志賀の少し奥の地に住むことにした。

「自分で工夫し設計・施工したので、家が身近に感じられて住む味わいが増した。

作品の中に住んでいるような感じ」と満足のご様子だ。

危機感を覚えるのは、その伊香立を始めとした日本各地の美しい風景が開発などの

ため失われていくことだ。「風景を保全するため働かなければ」という信念のもと

「不要不急な事業を止めるべきだ」と訴えている。

この3人の想いと同じ様な自然に魅了された人々が志賀の北部に居を構え、

地域の中で、自身の作品などを創作し、見せることになどで日々の生活を営んでいる。

例えば、

歴史や文化、伝統をになって代々暮らし続けてきた者、この地に魅せられ移住してきた

者、ギャラリー・工房を構え創作活動する者。さまざまな人々が手をとりあって、元気

な比良を発信することを目的にして、普段は公開していない作家の工房やアトリエを

開放したり、ギャラリーなどでは地域にちなんだ展示をしたり、他にも比良の子供

たちの絵画展や比良にゆかりのある作家たちの作品展、一般参加型のスケッチ大会、

歴史散策、里山コンサートなどを催している。

菓子工房、カフェ、地元食材のお弁当の美味しい店、アウトドアの店、幾つかの

陶芸家の店、庭工房、日用品の工房、アンティークハウス、アトリエ、など

琵琶湖と比良山系にはさまれ、人々の暮らしと自然が融合した地域の作品やもてなし

をしている。びわ湖に比良山脈がせまる細長い土地、それが比良。そこには

雑木林があり、里山の生活もある。

今では珍しくなったしし垣といって獣と人間が住み分けをするために作られた

石垣も残されているような土地なのだ。

 

先ほどのアメリカ人の画家も言うように、琵琶湖周辺でも、湖西と湖北は、まだ

古きよき日本の原風景を残している。

更には、生活の中に琵琶湖と比良の山並が滑り込んで、その古さと新しさの調和

を活かしている場所でもある。多くの古代文化の遺跡や古墳など形あるものは、

数百年の時により、消え去り埋没したかもしれないが、人をベースとする文化

は継続して残っていくし、その自然も他に比べて生きている。

例えば、湖国に春の訪れを告げる恒例の法要「比良八講(ひらはっこう)」は、

例年3月26日に大津市と周辺の琵琶湖で営まれ、僧侶や修験者らが、比良山系

から取水した「法水」を湖面に注ぎ、物故者の供養や湖上安全を祈願する。

この法要は、比叡山僧が比良山中で行っていた修法。法華八講(ほっけはっこう)

という天台宗の試験を兼ねた大切な法要で、戦後に復活された。

この法要のころに寒気がぶり返し、突風が吹いて琵琶湖が大荒れになる。これは

琵琶湖と比良山の温度差で突風が起こるものであるが、これを人々は「比良八荒

(ひらはっこう)」と呼び、この日を「比良の八荒、荒れじまい」の日として、

この法要が終わると湖国にも本格的な春が訪れる、とされる。

こんな逸話も残る。法華八講の修業が厳しいものだったため、ある僧に恋した娘

が僧の言う通り、琵琶湖をたらい舟に乗って99日通いつめ、100日目の夜に

明かりが灯されなかったがために、娘は琵琶湖に没してしまったという。

そのために、毎年この日、琵琶湖が吹き荒れるともいう。

現在の比良八講法要は、3月9日に日吉大社に関係者が集まって安全祈願する

ところから始まり、3月16日には志賀町の比良山系打見山で取水作法がある。

奈良のお水取りを修二会(しゅにえ)というが、比良八講では修三会(しゅさんえ)

である。そして3月26日午前9時ごろ、長等(ながら)3丁目の本福寺

(ほんぷくじ)を出発した僧や修験者ら約80人がホラ貝を響かせながら大津港

までお練りをし、浜大津港から船に乗って湖上修法と浄水祈願を行いながら堅田

へと向かう。堅田に到着後は、護摩供(ごまぐ)法要が営まれ、これで比良八講法

要が終了する。

また、少し奥へと入れば、比良山系の自然の作品、精神風土の名残にもにも会える。

比良山系は、1000メートル以上の山々が連なっており、冬の雪景色

(比良の暮雪と言われているが)、春のみずみずしい青さ、秋の紅葉と常緑の緑

のパッチワーク的な山肌、夏の深い緑と多面的な顔を持っている。

ここは、山岳信仰の場でもあり、今は廃墟と化しているが、比良三千坊と呼ばれた

寺院、修行場の跡も含め、修養の場としても最適であったのだろう。森に入れば、

その一端を味わえるのではないだろうか。 

比良山系に「日本の滝100選」にも選ばれている名瀑である八淵(やつぶち)

の滝がある。比良最高峰・武奈ヶ岳の北東に端を発する鴨川源流にかかる名瀑

として有名。その名前のとおり、8つの淵(滝)があり、下流から、魚止の滝、

障子の滝、唐戸の滝、大摺鉢、小摺鉢、屏風の滝、貴船の滝、七遍返しの滝と

なっている。8つの中でも、障子の滝と貴船の滝は大きくスリルに富んでおり、

夏には、その滝めぐりは清涼感の漂う、気持ちのよい山歩きとなる。

もっとも、ちょっと歩いてくる、と言った訳には行かないが。

楽浪(さざなみ)志賀の里では、湖水を見て、鳥の声を聞き、野辺の草花を触り、

森の匂いを嗅ぎ、せせらぎの水を味わう、五感がフルに活かせる。

 

見慣れた風景ではあるが、朝日の中で、少しづつ輝いているようでもある。

琵琶湖を右手に、湖西線の高く、無様なコンクリートの道を左手に見ながら、

八所神社の横から、湖の直ぐ横の道路を進む。

この道は、好きである。湖が直ぐ傍までそのゆったりとした

の波紋を見せてくれるから。

左手を走る161号線の喧騒と慌ただしさとは、関係ない静寂さ

がある。時折、小さな砂浜と小さな野辺に咲く草花、コンセンダングサの

小さな蕾やワルナスビの黄色い小ぶりの花、マンテマの白く可憐な花など等、

が湖面を渡るさそやかな風に身を委ねている。時折、ミズナラの木が

数本だけ思い出したように道に寄り添うように立っている。

車が1台通るのがやっとの道ではあるが、軽トラックがノンビリと道を

塞ぎながらやってくる。農作業の帰りであろうか、草の匂いとと共に、

脇を通り過ぎて行く。やがて、大きな砂浜が見え、まだ季節としては早いが、

海水浴場には、犬と戯れる子供がいた。

白い世界の中に、子犬のやや茶がった姿が、陽の中で、踊っており、

子供の嬌声と犬の泣き声がこの場を支配している。

砂浜は思いのほか長く、その婉曲を描いた先には、三角州をなした突堤と

遠く沖島が重なるように見えている。

やや陽の強さが増してきた。既に、額には、薄く汗が、、、、。

自分に言い聞かせる。

「ゆっくりと、着実に、と」

やがて、松林と小さな池に囲まれた湖岸がある。ここからの比良山と湖面の

調和は中々に楽しめる。静かな湖面と湖面近くまで建っている家々の間を

縫う様な形で道は続く。その道も湖に吸い込まれる様に消えた。

横を走っていた湖西線の高架も、山の中に消えていく。

細い道路を傍を通り過ぎる車を気にしながら、比良山のせり出して来る威圧感

をも感じながら、少し先に、北小松の港が見えてくる。

古代には、かなり栄えたとのことで、港の造りも石積みのしっかりしたものである。

昔は、敦賀からこの琵琶湖を目指して来た人々がここから大津や対岸の港に

船を使って、人や物資を運んだのだ。古代近江路と言われる重要な幹線道路と

海上交通の要でもあった。

チョット左手に行くと、鮮度を売り物にする若い主人が頑張っている

すし屋がある。中々に、歯ごたえのあるネタであり、クチコミで、

大阪や京都からも、オバサン連がよく来るのだそうだ。

気には恐ろしいオバサンパワーである。

 

司馬遼太郎の「街道をゆく」にも、この北小松の風情が描かれている。

ーーー

北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、

その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて

こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。

、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。

村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに

相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、

湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。

その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近

の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている

のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。

ーーーー

確かに、注意して、少し回りを見渡せば、他のところと違い、石積み

の堀が結構多い。漁港の周辺も、石積みで出来ている。

小さな砂浜に下りてみる。

少し朽ちた杭に藻が幾重にも、絡まり、数10匹の若鮎たちがその

間を縫うように、泳いでいる。五月の風が吹き、遠くの沖島のざわめきが

此処まで、聞こえて来るような静かさ。

静寂の中でのひと時の安らぎ、まだ、出発して、10km前後だというに

既に、疲れがじわりと身体を這い上がってくるようだ。

日差しが熱く身体を突き抜けていく。

道路も、少し狭まばり、車が横をすり抜けていく。

何か背後から黒い刃物が、己の身体を突き刺すのでは、恐怖を感じる。

先に「ようこそ、高島へ」の看板、道路もかなり広くなり、まるで、

看板が手招きしている。湖からの風も柔らかく頬を撫ぜ、きらきらと

した湖面が、「さあ、まだその一歩を踏み出したばかりじゃないの」

と言っている。

横を走っていた湖西線も、別れを惜しむように、そこから山懐の

トンネルに吸い込まれ、消えていく。

0 件のコメント:

コメントを投稿