2016年1月26日火曜日

朽木から小浜へ


朽木は、京都大原から途中峠を通り、花折峠に続いている。

社会の波は押し寄せてくるもの、ここを比叡山の回峰行者と比良山の

回峰行者が、この世に別れを告げる、として、その荒行により、

即身成仏をなし得ようとした様に、いまでも、その気配を感じる。

まだ、残る日本の原風景ではあるが、多くの観光客は、車と言う

道具で、忙しく道の駅により、先を急ぐのみ。

何かを忘れているのであるが、それも分からないままなのであろう。

もっとも、かく言う私も、滋賀に来た当初は、道の駅から近くの

温泉へと、直行便の如く、走り抜けて、狭い道路沿いの川の流れに、

比良山ってその深さは凄いね!と感じ、迫り来る杉の黒さとその

圧倒的な緑の群れの中の自身の小ささを感じ無い訳には、

行かなかった情景を思い出す。

何処へ、誰とでも、行っても、点と点の行動の中で、ただ

ひたすら走るのみの時代、社会の大きな流れの中で、我を知らず、

富と生活の豊かさを享受することが唯一の目標であった時代。

誰もが、それを人生と思っていた時代、懐かしさと儚さが、

頭の中で、去来する。しかし、その歩みを停める訳には、行かない。

それは、己が人生を逝くときでもあるのだから。

右の足を前に出し、左の足を前に出す。その単調さが、全てである。

 

あらためて、松尾芭蕉の言葉が頭を過ぎる。

松尾芭蕉の旅の哲学が野ざらしなどの旅記録にある。

旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に

基づく最も純粋な生き方であり、最も純粋なことばである詩は、

最も、純粋な生き方の中から生まれる。多くの風雅な先人たち

は、いずれその生を旅の途中に終えている。

旅は、また、松尾芭蕉にとって、自身の哲学の実践と同時に、

のれがたい宿命でもあった。

「予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い

やまず、海浜をさすらいて、、、、」とあるが、旅にとり付かれた

己の人生に対する自嘲の念でもある。

まだ、始まったばかりの私の旅は、どうなるのか。特別に旅に取り付かれているわけでもないし、逃れ難い宿命とも思っていない。歩くことが自身の

人生の1章に書き込まれれば、との想いがあるのみである。

今日は朽木での泊まりにした。和邇を出てから10時間ほど経っている。

まだ明るいものの、山の冷気が少しづつ我が身を包みつつあった。慣れない足腰はすでに悲鳴を上げている。朽木本陣の道の駅を少し戻る形になるが、天空温泉と言う宿泊と日帰りの温泉施設がある。車では良く来るが歩いてここまで来たのは初めてだ。天空温泉の少し急な道を歩くのさえ怪しい。こんな状態で横浜までいけるのだろうか。杉や楓の木々をすり抜けてくる風が心地よい。空は相変わらず蒼さを保ったままであるが、西の木立ちには少し赤みがさし始めている。横を泥を跳ね上げた農作業を終えた車が数台ゆっくりと通り過ぎて行く。一日の仕事を終えた安堵感が伝わってくる。

その曲がりくねった道を4回ほど曲がると大きなグランドとその先に2階建ての樹造りの建物が見えてきた。

フロントには若い男女が忙しそうに立ち回っていた。既に日帰りの客は帰ったが泊り客の相手に翻弄されているようだ。

部屋はベッドに机が1つのきわめてシンプルなもの、殺風景と呼ぶ方が

相応しいかもしれない。

身体は疲労困憊であったが、温泉に入るため、最後の頑張りである。もくもくと立ち込める湯気の中に暫く身を起き今日歩いた情景を呼び起こす。あのチャトの何とも言えない眼差しと煌めく琵琶湖の湖面の静けさ、時折横を抜けていく車とそのときの僅かながら起きる恐怖感、野辺で土起こしをしていた人々の

なんとも言えない微笑、その横に小さいながらもしっかり咲き始めている草花の数々がとても一日の経験とは思えないほどに一挙に押し寄せてくる。

そして、湧き上がる「一日でこんな状態で旅を続けれられるの」という疑問が

一方でざわざわと私の気持を揺らしている。

やっとの事でベッドに倒れこんだが、その後の記憶はない。朝のしじまの中から聞こえる鳥の声に揺さぶるように起こされた。足と腰の痛みは相変わらず続いていたが、久しぶりの自然の中での営みが新しいエネルギーを与えてくれた様でもある。

「まあ、いける所までいこう」とベッドを飛び起き、ロッジから2日目の一歩を踏み出した。外は今日も蒼い空と深い木々の息吹きの中で明るく輝いている様である。

 

古代にあっては、ひろく越(こし)と呼ばれるいまの北陸三県は畿内と独立した一勢力をなし、奈良になっても屈強の勢力がここで発生する恐れがあった。

そのために、「愛発(あちち)の関」と言う関門が設けられていた。有乳山(あちち)のあたりにあったらしいが、いまは所在が知れない。現在の地図で言えば、滋賀県高島の海津を起点としてまっすぐに北上している古街道がある。それが国境と言う村から福井県に入るのだが、その越前へ越えたあたりが山中と言う村である。そのあたりの山を有乳山といい、愛発の関と言う古関もその付近の山路を塞いで建っていたのであろう。関所は7世紀半ばごろに制度として出来た。そのなかでも、「三関」と呼ばれて、鈴鹿、不破そして愛発がもっとも

重要なものとされていた。今、私のとっている道は、それよりもう少し西よりの小浜に出る道である。愛発の関は北陸から出てくる勢力に対する関門だが、軍事的に役立ったこともあった。関を閉ざすと言うは、中央の命令である。当時の言葉で、こげんと言った。固関の文字をあてる。「こげん、こげん」と使者が叫びつつ官符を持って駅場を飛んだのであろう。やがて平安期になればこれら律令体制関所が名のみとなり、それを懐かしむ歌詠みたちの歌にだけ出てくる。福井へ出る道は三つある。関が原から出ている北国街道が正当なものであり、ここから木之本へ、余呉湖のそばをとおり、そのあと、武生、鯖江をへて

福井に至る街道があり、琵琶湖の北岸の海津から北上し、愛発越えをして、

敦賀に出る。こちらの方が、はるかに街道として古い。愛発越えは、

奈良朝のころは国家が特に重視していた官道であっただけでなく、有史

以前からあったらしいと言うことは幾つかの傍証によってその様にいえる。

国土地理院の20万ぶんの1の地図をみると、海津、敦賀間のこの街道には、

「西近江路」という名称がついている。街道の中でも、最古に属する老舗

であり、いまは、敦賀から高島へ出るルートとしてその交通量も多く、また

道路もそれほど広くないため、歩きで行くにはかなり危険が伴う。

 

都が京都に移った後は、若狭との関係はいよいよ密接なものとなり、

京都へ通じる街道は、「鯖の道」と呼ばれるに至った。鯖だけではない、

若狭のカレイ、ぐじ、蟹などは、いまでも京都の台所をうるおしており、

夏休みには何百万人という人々が海水浴や釣りに行く、と言った具合に

風光明媚な若狭の国は、いわば、都の裏方、もしくは楽屋の役目を果たして

いるといっても、間違ってはいない。

しぜん若狭の住人は、都の文化の影響を受けて今に至っている。幸か不幸か

いつも縁の下の力持ち的な立場であったため、都会の悪風に犯されてはいず、

自然の風景は昔のままに美しく、人間の気風もいたって穏やかである。

 

朽木から西北に向かうと小浜へ行く。ここは、楽浪の里としての志賀にも

縁がある。そして、三方五胡、若狭湾、その昔多くの人で賑わい、奈良や

京都にも縁が深い地域である。まだ日本の持つ良さをも持っているのであろう。

古くから、京都と「鯖街道」を通して日本海の交通の玄関口として栄え、

文化の交流も近畿地方と深まり、そのため「海のある奈良」と呼ばれる

ほどに寺院が増え、人口3万人強の小浜市に110以上の寺院がある

とのこと。ここも、電力会社の仕事では、良く泊まった場所でもある。

 

朽木から細い道路を、迫り来る山並に気を取られながら、そよ風に追われる

か如く、歩みを進める。昨晩の寝つけの遅さが少し影響しているのだろうか、

春の暖かさに身体がまだ馴れていないのであろうか、身体全体がやや浮き

足立っている。もうここは、小浜市に入った様でもある。

旅の2日目であるが、30キロ以上を歩いた。さすがに足は硬直しかかっている。海の見える宿に泊まる事にした。

2016年1月21日木曜日

志賀から高島へ


権現崎の鳥居が見えて来た。

白鬚神社が湖岸の道を大きく湾曲した先にあり、昔は、比良の大和太

と呼ばれていたとの事。

ここから見る比良の山々は、3重に重なり、蓬莱山、武奈岳と1000

メートル級の峰が幾重にも連なっている。

この周辺も、我が家の近くと同じで、多くの古墳群がある。

また、近くには、苔むした中に、48体の阿弥陀如来の石仏がある。

昔、来た事があるが、寂寞とした中に、時の流れを感じたものである。

白洲正子も、近江山河抄、の中で、言っている。

「私が行った時には、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした

風景に花をそえていた。入り口には例によって古墳の石室があり、苔生した

山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言うより

他はない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが、

野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている」。

しかし、時代は変わっていく。今は綺麗に整備された周辺には古墳はなく

一般の墓所となっている。

越前と朝鮮との距離は、歴史的にも、地理的にも、私が想像する以上に

近いのである。古代に流れ着いたり、船で来た人々が、明るい太陽を求めて

南に下り、近江に辿り着くまでに幾多の嶮しい峰や谷、山を越えてきた

のであろうが、初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚き想像せず

にはいられない。

今、私は、その逆の道を行こうとしている。

安曇川の手前を左手に、周辺より少し高い武奈ヶ岳に向かっていくと

「日本の棚田百選」に選ばれた畑地区の広く広がる棚田や

これも、「日本の滝百選」に選ばれた八ツ淵(やつぶち)の滝

、その名前のとおり、8つの淵(滝)があり、下流から、魚止の滝、

障子の滝、唐戸の滝、大摺鉢、小摺鉢、屏風の滝、貴船の滝、

七遍返しの滝があるのだが、その道を横目に見て、安曇川に

向かい、ひたすらに歩く。

これほど美しい5月は初めてだ。

空は例えようのない青さに輝き、それを損なう雲はひとかけらも見えない。

家々の庭は早くもルピナスやバラ、デルフィニウム、スイカズラの花、

さらにライムグリーンの雲を思わせるハゴロモグサで埋め尽くされている。

虫たちが飛び立ち、宙にとどまり、羽音をたて、空を切って飛び去っていく。

和邇はキンポウゲとヒゲナシとフランス菊とシロツメクサと

カラスノエンドウとナデシコの咲き競う野原を通り過ぎた。

生垣をニワトコの花房の甘い香りが包み、野生のクレマチスや

ホップ、ノイバラが絡み付いている。市民菜園もまた芽吹きの

季節を迎えている。レタス、ほうれん草、チャード、ビーツ、

ジャガイモの若芽、そして支柱に絡みついてドーム型に伸びる

えんどう豆が列を成している。

さらに、山が次第に深まるに連れて春の気配は、いよいよたけなわになる。私は、

しばしばくぬぎの木の中に入って、一面に散り敷く若草の上をそのしっとり感を

味わいながら行った。この辺、楓が割合に少なく、かつ一所にかたまって

いないけれど、新緑が今が真っ盛りで、蔦、櫨、山漆などが、杉の多い峰

の此処彼処に点々として、最も濃い緑から最も薄い黄緑にいたる色とり

どりな葉を見せている。一口に新緑というものの、こうして眺めると、

緑の色、渇の色も、黄の色も、その種類が実に複雑である。同じ黄色い

葉のうちにも、何十種と言う様々な違った黄という違った色がある。

「繚乱」という言葉や、「千紫万紅」という言葉は、春の野の花を形容

したものであろうが、此処の夏のトーンである

ところの黄を基調にした相違があるだけで、色彩の変化に富むことは

おそらく春の野に劣るまい。そうしてその葉が、峰と峰との裂け目から谷間

へ流れ込む光の中を、時々緑色の虫のように飛び回りつつ水に落ちる。 

格子戸のある軒先を、チョット古びた酒屋の横を、行き交う人は、

ほとんどいない。数台の車が、静かに横をすり抜けていく。

既に、陽は真上にあり、私の小さな影が、その歩みとともに、

ゆっくりと付いてくる。
 

道路の脇に、打ち捨てられた様に、新聞の自動販売機がポツネンと立っている。

20年ぐらい前には、よく見かけたものだが、すでに塗装は剥げ落ち、錆びた身体を

無理にも元気よく見せようとする老人の如き風情がある。彼もこの20年風雪に

耐えて、己が使命を全うしてきた、そんな風に和邇には見えた。

ふと昔の新聞記事の紹介の事を思い出した。

ここ数年でも、特にあの事以来、いきがいという言葉さえ自身から消失したように

思えていた。老いること、日々に何かを尽くす相手がいなくなる事がこれほど、

自分の行動を縮退させ、影の如き日々の人になるとは、思えなかった。

その新聞記事は1987年11月のものであった。

「生きがい新旧格差について、20歳代の社員ほど、家族を犠牲にして仕事に打ち

込むことに否定的であり、生きがいを仕事以外に求める人が3分の1を占めている。

日本能率協会が11月24日発表した「生活意識多様化調査」で20歳代と

40歳代の「新・旧対比」がはっきりした」。

それに寄せられた意見・感想として、

「1987年の20歳代というと、2012年では40歳代だと思うが、実感値

として家族を犠牲にして仕事に打ち込む40代が多い印象を受ける。

それは立場によるものもあるかもしれないが、例えば「残業後に会社チーム

で飲み会に行く」「会社のゴルフ大会に精を出す」など、生きがいを仕事

に求める人が多いのではないだろうか。

近年取られるアンケートでも20代の仕事離れが進んでいるという話題

がたびたび取り上げられるが、20年後には立派に仕事人間になっていると

思うので、あまり問題視する必要性はないのかもしれない」。

約30年前の社会事情だが、現状はどのように変わっているのだろうか、

すでに社会から一歩も2歩も退いた和邇にとって、その変わりの様を知るのは、

難しくなっていた。ただ、息子たちを見ていると、仕事への取り組みの強さ

と考えれば、それが生きがいになっている様でもある。

ただ、和邇があの成長期に感じた生きがいと彼らの思っていることには、大分

の開きがある、遠く山並を黒く流れる雲とその速さに眼を移しつつ、彼は思った。

 

安曇川の流れを遡り、のどかな平野をゆっくりと西へと進む。

今の朽木は、温泉もあり、道の駅もあり、観光客が押し寄せて来るので、

やや騒がしいものの、行く道の森と林、そして渓谷は、多くの旅人

が見た景色とかわらないのであろう。

この辺で谷は漸く狭まって、岸が嶮しい断崖になり、激した水が川床の

巨岩にぶつかり、あるいは真っ青な淵を湛えている。木作りのその橋は、

木深い象谷の奥から象の小川がちょろちょろ微かなせせらぎになって、その淵

へ流れ込むところに懸かっていた。ほんの一筋清水の上にに渡してある、

きゃしゃな、危なげなその橋は、ほとんど木々の茂みに隠されていて、

上に屋形船のそれのような可愛い屋根がついているのは、雨よりも落葉

を防ぐためではないか。そうしなかったら、今のような季節には忽ち木

の葉で埋まってしまうかと思われる。橋の袂に2軒の農家があって、

その屋根の下を半ば我が家の物置に使っているらしく、人のとおれる路を

残して薪の束が積んである。ここは、朽木と言う所で、そこから道は

2つにわかれ一方は川の岸を敦賀へ、一方は先ほどの橋を渡り、桜木の宮

を経て京都の方へ出られる。 

少し先の畑では、何やら数人の人が、のどかにこちらを見ている。

道端には、小さな蓮華、黄色く色付き始めた野菊、がこちらを見ている。

春の長閑さを現す言葉に、春風駘蕩、と言うのがあるそうだが、今まさに

その風情を味わいながら、ゆっくりと、その歩みを進める。

ふと道端に目を落とすと、紫に黄色のあでやかな花が数輪、わずかな風に

揺られていた。

ミヤコワスレ、この紫の端正な花弁は四方へ伸びやかに広がっている。

昔都を落ちた天皇がその不遇な毎日に、この花を愛でていたという。しかし、

それが広壮たる都の高殿になるわけでなく、春の花の一輪にとどまったままだ。

そうだ、それは確乎たる1個の花であり、それ以上のものではない。

暗示を含まぬ一つの形にとどまっていた。慰めと言う行為のみにその存在が

あるように。だが、それはこのように存在の節度を保つことにより、溢れる

ばかりの強さを放ち、人の願望に相応しいものになっている。

形なく人の心に寄り添い、流れさる願望の前にその対象としての形に身を

潜めて息づいていることは、何と言う欺瞞だろう。その形は心とともに

徐々に希薄となり、破られそうになり、おののき震えていく。

ミヤコワスレ、その美しさ自体が、想いに向って花開いたものなのだから、

今こそは、生の中での意味がかがやく瞬間なのだ。

はかくて私は、花の奥深く突き進み、花粉にまみれ、酩酊に身を沈めた。

私を迎え入れたその花が、それ自身、紫と黄色の豪奢な鎧を着け、

今にもその束縛を離れて飛び立とうとするかのように、はげしく身を

ゆすぶるのを私は感じた。私はほとんど光と、光の下に行われている

この営みとに眩暈を感じた。

だが、生が私に迫ってくる刹那、また茫漠たる物の世界に、ただいわば

残された自分にとどまった。虫たちの飛翔や花の緩やかな動きは、風のそよぎ

と何ら変わりがなかった。この静止した凍った世界ではすべてが同格であり、

あれほど魅惑を放っていた形は死に絶えた、消えた。ミヤコワスレはその形

よってではなく、我々が漠然と呼んでいる春の花という約束によって美しい

にすぎなかった。

生の流動と一瞬みた歓びは消え、時間だけが動いていたのである。
 

人は過去を切り捨て、来るべき次の時間に幸せと言う曖昧な喜びを期待する。

しかし、時に自分の過ごした場所やそれを思い出すようなことに出会うと、

体の大分奥底にあった淀みのような塊りが水に浮かぶかのように水面に

顔を出す。今の和邇がそうかもしれない。

横を通り過ぎる十代や二十代の若者が何か楽しそうな話やゲームをしている。

何かに熱中したという思いはないが、まだテレビが良く見られた時代、夕食の

ちゃぶ台越しに見入った月光仮面、兼高薫の世界の旅、ウルトラマン、さらには、
てなもんや三度がさ。今にしてみれば稚拙さの目立つテレビ番組ではあるが、
懐かしさが心に仄々とした温かさを持ち込んでくる。
さらには、1970年初めの頃の「時間ですよ」は銭湯を舞台にしたもので
中々に楽しかった。

相変わらず足先の痛さはあるものの、心なしか足の重しが解放されたように

リズムが出てきた。二十代の頃には、今から考えれば、下らんと思うが、

漫画は見ない、テレビは見ない、車は乗らない、煙草は吸わない、この四つは

死ぬまで守るなどと言い放ち、結局は煙草の件だけが残った事を思い出す。

漫画なんぞは結局三十代後半まで、少年サンデー、マガジンを良く見たものだ。

全くの笑止千万のこと。中天の陽射しの下で影も笑っている。

思わず苦笑いが出る。時間は、そのときの苦しさ、口惜しさ、更には喜びまでも
そのときの感情を消し去り、新たに懐かしさと言う感情を持ち込んでくる。

私にとって、それはふと横にいる女性に触れられたような甘さを含むことが多い。
この薄汚れたような老人がニヤニヤしながら歩く様はさぞかし不審なこと
なのであろう、怪訝な顔をして横を通り過ぎる人たち。

鳥と人のさざめきの中、彼は七十年代の時間に身を置いていた。

朽木から少し山伝いに歩を早め、小さな集落のいくつかを通ると、やがて

山あいから良く手入れされた畑や田圃が見えてきた。土には既に鍬が入れられたか
の如く、黒々とした土が幾つものあぜ道に区切られて点在している。

あぜ道には、小さなハコベや蓮華草が可憐な花をつけ始めている。

そして、大分前にこのあたりを車で通った時のあたり一面が向日葵の黄色の

世界であった事、その横に二本の百日紅の木がそれらを見下ろすように

立っていた事が、ふいと心に浮かんだ。

 
夏の朝と夕刻の庭の水遣りがいつしか彼の仕事になっていた。

さして大きくないその庭にも、気をつけてみると梅の木がどんと居座り、その存在を

これでもか、と見せている横には、数株の紫陽花が他の木々に挟まれるように

ひっそりと立っている。少し外れてはいるが、これもどんと根を生やしたかのような

蜜柑の木が梅ノ木に対抗するが如く天に一直線に伸びている。さらには、いつの間にか

ススキの一群が片隅を占拠し、秋になるとあのやや灰色の穂を野太く道路まで

被うように茂っている。さらには、春の遅くに真っ赤な花を咲かせるベゴニアの

木がいる。それに対比するかのように少し奥の塀の近くには、大輪の西洋芙蓉が

この赤い世界が消え去ろうとする時分になると咲き始める。さらには、秋から冬には

全くの枯れ木状態であった紫式部の木が立派な枝を四方に伸ばし、その名の

紫の小さな実をつけ始めている。

そんな季節ごとの花の協奏曲を思い浮かべながらも、彼は朝の光をその一つ一つ

の水滴が反射しながら降りかかり、そのたびに夫々の花や葉が息を吹き返す様

を見ている。ほとばしる水が鞭となって空気を打ちながら、ときおり朝の陽の光を

捉えてきらめいていた。

ふと、目に付いた切り株に驚きが走る。それは妻が数週間前にばっさりと切った

榊の木であるが、既にそこには新しい命が生まれていた。それはつらつとした

緑の葉をキラキラと光らせていた。確か、それを見たのは1週間ほど前に

わずか1つほどの新芽がその切り株から出ていたと思ったが、いま眼の前に

あるのは、10本近くに増えた若い小さな枝の群れである。

それは、放物線を描いて光りながら伸びる水のシャワーの先で水と光の中、

圧倒的な若さを見せている。

彼は、水遣りのことも忘れ、暫らくその若い枝の群れに見入っていた。

生命とは凄い、頭の中でそれが何回となく反芻していた。

その感触は、木々や草花だけではない。時たま、水に驚いて飛び出す

トカゲの親子や糸トンボの夫婦、烏アゲハの夫婦などなど色づいた木々や

草花の下では、多くの生き物が毎年、生まれ育ち、その姿を見せる。

しかし、それらの姿も秋となり、冬となるにつれてその数は減っていく。

気付けば、黒く垂れ込めた冬の雪を含んだ雲が比良からこの辺り一面を

被い尽くす頃には、全ての生命が見えなくなっている。今、眼前に広がる

紫式部の花も紫色が大きく鮮やかになる秋から知らぬ間に枯れ木に変身する。

そこには、何も残っていない。しかし、翌年には、また見事な紫の世界を

現出する。そのような変転が10年以上も続いているのだ。ただ、和邇も

含めてそのような世界を味わう人が少ないのも、事実である。皆、何かに

追われるように日々を過ごしている。

 
和邇には、季節ごとに好きな花がいくつかある。どうして、それと、言われても

明確には答えられない。自分の心の奥底にある何か、がそれを求めているの

かもしれない。

それが歓喜を与えるものだったり、安らぎを与えるものであったり、楽しさが

湧いてくるものかもしれない。多分、他の人も同様の感じを持っているのでは、

と思っている。例えば、妻は紫陽花が大好きであった。特に青の色の映えた

大輪の紫陽花は、何時間見てもいいわ、とよく言っていた。和邇が何故、と

聞いても明確な理由を聞けなかった。何と無くこれを見ていると心が静まる、

と言っていたものだ。近所の太田さんも、庭中に、チューリップを植えて

毎春、その黄色やピンクのお椀の姿に、眼を細めていた。彼も、その色に惚れた

と言うが、それ以上の答えはなかった。和邇の勝手な解釈でも、顔形の整った

いわゆる美人であっても、一般的な綺麗と言う感情は湧くが、その整った

顔や形に自身が歓喜する、楽しくなる、幸福感が増すなどの行為になる、

とは思っていない。自身が意識していない何か、心の琴線と呼ばれるものに

触れることが重要なのだ。さらに、和邇の場合は、昔写真に入れ込んだときから

カラーよりもモノクロの持つ見えざる力に共感していた。カラーは、色に

よって、人の感情を高めるが、それは本当の写真の持つ力ではない。ある意味、

誤魔かし、とさえ考えている、と言うより確信していた。最近、ある高齢の

女性写真家がモノクロによる神社や社などの風景を撮った写真を見た。

素晴らしいと思った。神社や社の持つ不可思議な雰囲気と神と言う形の

見えない何かを何故かその写真は感じさせてくれた。多分、これらをカラー

で見せていたら、単なる風景写真として、人の心を振るわせることには

ならないであろう、和邇は写真の前でそう感じたし、現にその写真家もカラーで

数年、同じ題材を撮っていたが、ほとんど評価されなかったと言う。

色と言う人の心を惑わす所作がなくなった分だけ、見る人も写真の持つ力を

感じ取れるのではないだろうか。

 
夏は、向日葵と百日紅が和邇の好きな花である。

向日葵の茶褐色のパウンドケーキのよう真ん中の種子の周りに黄色の小さな

花びらが太陽を仰ぎ見る姿は、神々しくも見える。その無限のようなエネルギー

の発散が身体中をドンと突き抜けていく、様だ。そして、百日紅は、この

暑さの中で一服の涼しさと優しさを与えてくれる。やや遠くからでも映えている

そのピンクは、良く見れば、ごく小さなピンクの花が数十となり寄り添って

一つのピンクの華を形作っている。更には、その小さな花一つ一つに黄色の

雌蘂がピンクの花びらに守られかの如く密やかに存在する。この一見華やかだが、

実は密かなるモノ立ちの集まりが和邇に安らぎを与える。

昨年の夏はそのような風景を探して、猫のチャトと野辺をふらりと、チャトは

やや警戒しながら、歩いたものだ。

夏の真ん中とはいえ、朝の夏はその生命力を周辺の木々、鳥たち、花々に

ふりまくように、そのエネルギーを抑えている。空は相変わらず透きとおり、

比良山麓の緑も美しく、そして優しく2人を見守っている。今、右手には

朝日に向って向日葵の一群が空の蒼さと山麓の緑の中で、神々しく立っている。

和邇は、暫らくその光景に心を奪われ、立ち尽くしていた。チャトが下から、

早よう行こうやと例の三角眼を和邇に投げかけている。先ほどは、幾つかの

家の庭でピンク色に覆われた百日紅の花に清清しさを覚えた和邇であった。

その日は大満足、そんな気持が和邇を支配していた。

そして、遠くへの旅立ちの日に同じ様な光景のあった場所を通り過ぎる。

それもまた人生、そんな事を考えながらゆっくりと歩んでいく。

それでも、この冬は好きな花を愛でられた、そんな想いがふつふつと湧いてくる。

冬は春ほどの華やかさがなくなるが、それでも、クロッカスと水仙は

お気に入りである。特に、今、庭先に見えるクロッカスには、少女の

あどけなさと雪の中でも凛然と咲く強さを感じ、彼が好きな花である。

紫の手毬のような中に白い線が数本見える。5,6ほどの花が雪の白さの

中から抜け出したようにこちらに顔を向けている。更に、眼を少し先に転じれば、

道路向こう岸さんの庭には、白と黄色の配色のある水仙が可憐に咲いている。

毎年他の草花が枯れる頃になると、芽を出してこの時期に花が咲き始める。

細身の身体がなよと緩やかな婉曲を見せ、白や黄色の花弁をみるに、浮世絵に

描かれている美人画にも思えてくる。

冬でも和邇の眼を愛でてくれるこの二つの花があるというのが、この冬を

乗り越えさせたのだろう。と、思う。